2017年02月22日

エゼキエル書81 わたしはねたむ神(エゼキエル書23章25節〜30節)



 わたしはあなたをわたしのねたみとする。彼らは怒って、あなたを罰し、あなたの鼻と耳とを切り取り、残りの者を剣で切り倒す。彼らはあなたの息子や娘たちを連れ去り、残りの者は火で焼き尽くされる。(エゼキエル書23章25節)
 彼らはあなたの着物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取る。(26節)
 わたしはあなたのみだらな行ないと、エジプトの地以来の淫行をやめさせ、あなたが彼らを仰ぎ見ず、もうエジプトを思い出さないようにする。(27節)

 すでに書きましたように、旧約聖書の神と人との関係を、人間の結婚関係――ありていに言えば性的な男女関係に引き移されて(譬えられて)語られているゆえに、多くの聖書読者をつまづかせます。
 たとえば、「わたしはねたむ神である」と言ったくだり(出エジプト記20章5節)を原語に戻って、ねたむの意味を熱情だとか、深い愛ゆえの熱い思いに置き換えようと解説しているのを見ます。日本語で「ねたむ」という場合の、マイナスのイメージをなんとか払拭しようとしている感じです。

 本来、愛と妬みは背中合わせではないでしょうか。妬まない愛などあり得ません。しっとと愛はもろ刃の剣です。つまり、「愛はよく研がれた刃物」と同じです。ただし、よく研がれた刃物が、愛と同じとは言えませんね。ナイフで見ず知らずの人を刺すような悪意、また戦場では剣で相手を倒すのですが、考えて見たら、これは本来、人の英知の現れである発明品――「刃物」に悪魔が働いている状態ですね。刃物にとっては迷惑な話です。

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 神はイスラエルを深く愛されているゆえに、イスラエルの裏切りをお許しにならないと仰せなのです。ですから、異邦の民が、「彼らの鼻と耳を切り落とし、剣で切り倒し、娘や息子たちを連れ去り、残りの者を火で焼く」ことをお許しになるのです。

 神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたが憎む者の手、あなたの心が離れ去った者の手に、あなたを渡す。(28節)

 アッシリヤの軍隊や、バビロンのネブカデレザルが虐殺をするのを、主がお許しになる。むしろ、主の御意思であるということを聖書読者は、なかなかすんなりと受け入れがたいのです。

 彼らは憎しみをもってあなたを罰し、あなたの勤労の実をことごとく奪い取り、あなたをまる裸にして捨て去ろう。あなたの淫行と淫乱と売淫の恥はあばかれる。(29節)
 これらのことがなされるのは、あなたが異邦の民を慕って姦淫をし、彼らの偶像であなたの身を汚したからである。(30節)

 しかし、その原因はあくまで、イスラエルの人々が異邦の神と姦淫したことにあるのです。
 今日の私たちは、姦淫をそれほどまでに深刻に受け取らないように「宣伝される」社会に生きています。けれども、神の深い愛を理解する時、その愛に浸るとき、姦淫は本来ありえないと、聖書は語っているように思います。







posted by さとうまさこ at 11:08| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする