2017年02月24日

エゼキエル書83 淫行の責めを負え(エゼキエル書23章35節〜44節、)



 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたはわたしを忘れ、わたしをあなたのうしろに投げやったから、あなたも自分のみだらな行ないと、淫行の責めを負え。」(エゼキエル書23章35節)
 主は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはオホラとオホリバをさばくか。それなら、ふたりに彼女たちの、忌みきらうべきわざを告げ知らせよ。(36節)
 彼女たちは姦通し、その手は血に染まっている。彼女たちは自分たちの偶像と姦通し、わたしのために産んだ子どもをさえ、それらのために火の中を通らせて、焼き尽くした。(37節)
 なお、彼らはわたしに対してこんなことまでし、同じ日に、わたしの聖所を汚し、わたしの安息日を汚した。(38節)
 偶像のために、自分たちの子どもを殺し、その同じ日にわたしの聖所に来て、これを汚した。彼らはなんと、このようなことをわたしの家の中でした。(39節)

 イスラエルが「夫である主」に対して犯した悪業が並べられています。すでに何度も語られていることです。今日の結婚観や男女関係を前提にしていると、これらは少々厳しすぎると感じられるかもしれません。姦淫は悪いかもしれないけれど、それほど罰せられるなら離婚してくれ」などとなるのが、今日の結婚関係だからです。
 一番の違いは、人間の男女関係は対等なものだということでしょう。素晴らしい夫も決して完全に妻を愛することはできません。妻を「奇蹟でもって」救い出し、すべてを与え、すばらしい約束を将来にすることもできません。約束をしても、じっさいに実現できないのです。豪邸を買って妻を住まわせ、豪勢な生活をさせる夫は、あるいは、存在するかもしれません。アメリカの富豪大統領は、移民である妻に望む物すべてを与えているかもしれません。でも、人間の夫には、多くの制限があります。まず、「永遠」ではありません。妻を含めて「すべての創造主(つくりぬし)」でもありません。知恵も知識も限りがあります。すべての人の「髪の毛の数」など数えようもありません。自分の髪でさえ、白くも黒くもできません。(手を掛けて染めたり植えたりすることはできますが) 

 聖書が書かれた時代の中では、神を夫になぞらえるほど、人間の夫には権威と力があったのでしょうか。夫は妻の生涯を愛でもって保障しつづけたのでしょうか。

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 それなのに、あなたがたは、遠くから来る人々を、使者を遣わして招いた。彼らが来ると、あなたは、彼らのために身を洗い、目の縁を塗り、飾り物で身を飾り、(40節)
 豪奢な寝台に横たわり、その前に食卓を整え、その上にわたしの香と油とを置いた。(41節)

 その上、わざわざ遠くに使者を遣わして、姦淫の相手を招いたというのです。姦淫の相手に気に入られようと、厚化粧をし、飾り物を身にまとい、相手を接待したのです。寝台で横たわって食事をするのは、当時の中東の風習だったのでしょう。

 そこでは、のんきなばか騒ぎが聞こえ、都会からの者に、荒野からの大酒飲みが加わった。そして、彼らは、彼女たちの腕に腕輪をはめ、頭には、輝かしい冠をかぶせた。(42節)

 お客には、都会からの者と荒野からの者が混じり――つまりあらゆる種類の男達がいて、じつに盛大だったのです。男たちは当然女に腕輪や冠を贈るのです。

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 主は同時に、客になっている男たちについても考えておられます。自分の妻と姦通する男たちも無罪ではあり得ないのです。

 そこで、わたしは、姦通で疲れきった彼女について考えた。彼らは今、その女と姦淫をしているのではないかと。(43節)
 彼らは遊女のもとに行くように、彼女のもとに行った。彼らは、みだらな女たち、オホラとオホリバのもとに行った。(44節)

 十戒の7番目の戒めは,姦淫してはならない(出エジプト記20章14節)です。これについては、レビ記には、人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通して男も女も必ず殺されなければならない。(レビ記20章10節)とその内容が記されています。










posted by さとうまさこ at 10:15| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする