2017年02月26日

エゼキエル書85 この日、ちょうどこの日の日づけを書きしるせ。(エゼキエル書24章1節〜11節、)



 第9年の第十の月の十日に、私に次のような主のことばがあった。(エゼキエル書24章1節)
 「人の子よ。この日、ちょうどこの日の日づけを書きしるせ。ちょうどこの日に、バビロンの王がエルサレムに攻め寄せたからだ。(2節)


 多くの男たちがオホラとオホリバ(イスラエル)と姦通するためにやってきたのですが、罰するためにやって来る男もいる、それがバビロンであるというのが、23章に書かれていました。
 姦通することは、主の目からご覧になったら、主の愛をないがしろにする許しがたい罪です。ですが、人間的な目で見ていると、それは一種の処世術でした。モアブ、アモン、ペリシテ、エドムなどの国々と、イスラエルは「うまくやっている」つもりでした。敵対する時もありましたが、同盟を結ぶ時もあり、偶像礼拝も彼らにとっては、方便だったのかもしれません。しかし、バビロンには、そのような小手先の外交手段や方便は通用しなかったのです。

 バビロンによって立てられていた傀儡の王ゼデキヤが、バビロンに叛いたとき、バビロンは、最終手段を取ってエルサレムに攻め上り、町を包囲しました。
その日にちをどうしてエゼキエルが知り得たのかは、よくわからないのです。今のように電話やメール、テレビやラジオのニュースがある時代ではありません。
 バビロン政府の中枢には、いろんなニュースが届くシステムが会ったでしょうが、彼らは捕囚でした。

 まさに、預言者エゼキエルの面目躍如、預言が神のことばを受けることだということが証明されている個所です。

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 この包囲がどれほど厳しいものであったかが語られます。包囲は、ゼデキヤの治世の第9年第十の月の十日に始まり、第11年まで二年半も続いたのです。囲まれて兵糧攻めにあっている状態は、もはや、いくさとは呼べません。(U列王記25章1節〜4節)
 籠城に意味があるのは、援軍が来るとわかっている場合だけです。この時、ゼデキヤがエジプトを当てにしていたのは事実のようですが、結局、エジプトは、当てにするに足る夫ではなかったのです。 

 ここで再び、火にかけられた鍋とその中の肉のたとえが出てきます。(エゼキエル書11章3節〜)

 あなたは、反逆の家に一つのたとえを語って言え。
  神である主はこう仰せられる。
  なべを火にかけ、
  これを据え、水をこれに注ぎ入れよ。(3節)
  これに肉の切れ、
  ももと肩の良い肉の切れを
  みないっしょに入れ、
  えり抜きの骨でこれを満たせ。(4節)
  えり抜きの羊を取れ。
  なべの下には、まきを積み、よく沸騰させて、
  その中の骨も煮よ。(5節)
  それゆえ、神である主はこう仰せられる。
  ああ。
  流血の町、さびついているなべ。
  そのさびは落とせない。
  一切れずつそれを取り出せ。
  くじで引いてはならない。(6節)
  彼女の血はまだ、そこにある。 
  彼女はそれを裸岩の上に流し、
  地面にそれを流さず、
  これに土をかぶせようともしなかった。(7節)
  わたしは、憤りをつのらせ、
  復讐するため、その血を裸岩の上に流させて、
  これに土をかぶせなかった。(8節)
  それゆえ、神である主はこう仰せられる。
  ああ。流血の町。
  わたしもこれにたきぎを積み上げよう。(9節)
  まきをふやし、火を燃え立たせ、
  肉をよく煮、味をつけ、骨も燃やせ。(10節)
  なべをからにして炭火にかけ、
  その青銅を熱くして、その中の汚れを溶かし、
  さびがなくなるようにせよ。(11節)









posted by さとうまさこ at 08:59| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする