2017年02月27日

エゼキエル書86 けっして落ちないさびに対する宣告。(エゼキエル書24章3節〜14節)



 鍋を火にかけ、肉や骨を煮よと言うのが神のご命令でした。預言者エゼキエルは、神の仰せのとおり民の前で実演して見せたのです。これがパフォーマンスによる預言と言われるものです。これ自体が一つのたとえであると、語られてもいるのです。
 実演する以前に、エゼキエルには、神の意図しておられるところがわかっていたはずです。そもそも、エゼキエルはユダとイスラエルについて、その罪とその結果をユダの人々――捕囚になった者たちに、告げ知らせるために召されたのです。
 エゼキエルの劇的な召命の様子は、エゼキエル書1章1節から絵画的なメッセージとして記されています。預言としてのパフォーマンスも、4章5章12章と21章、24章もパフォーマンスを含む預言です。
 エルサレム陥落の日を書き記させることを命じられた主は、さらにその意味を実演することが続くのです。

  神である主はこう仰せられる。
  なべを火にかけ、
  これを据え、水をこれに注ぎ入れよ。(エゼキエル書24章3節)
  これに肉の切れ、
  ももと肩の良い肉の切れを
  みないっしょに入れ、
  えり抜きの骨でこれを満たせ。(4節)
  えり抜きの羊を取れ。
  なべの下には、まきを積み、よく沸騰させて、
  その中の骨も煮よ。(5節)
  それゆえ、神である主はこう仰せられる。
  ああ。
  流血の町、さびついているなべ。
  そのさびは落とせない。
  一切れずつそれを取り出せ。
  くじで引いてはならない。(6節)
  彼女の血はまだ、そこにある。
  彼女はそれを裸岩の上に流し、
  地面にそれを流さず、
  これに土をかぶせようともしなかった。(7節)

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 この鍋の中の肉や骨については、その意味するところが、注解書に解説があります。鍋はエルサレムのこと、「良い肉切れ」や「えり抜きの骨」は、民の指導者たちといった具合です。「さび」はエルサレムで流された血の結果できたもの――血糊(ちのり)と言ってもよいのでしょう。

 鍋にさびが取りついている時、人は何とかしてそれを落とそうとします。鉄のさびなどは、はもともと、使用されずに空気中に放置されていることでなおひどくなるのです。その中で物を煮ていれば、取れることが経験的にわかっていたのでしょう。

 しかし、その骨折りはむだだった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお、火の中にあった。(12節)

 「さび」はあまりにも、深くて厚くて通常の手段では落ちなかったのです。あるいは、鉄なべそのものを損なうほどに深く錆びついていたのでしょう。
その状態を、主は次のように仰せなのです。

 あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。それでわたしがあなたに対するわたしの憤りを静めるまで、あなたは決してきよめられない。(13節)
 主であるわたしは言った。それは必ず起こる。わたしはそれを行なって、なおざりにせず、惜しまず、思い直しもしない。あなたの行ないや、わざにしたがって、あなたをさばく。――神である主の御告げ――」(14節)

 そして、とうとう、エルサレム(神の民)は裁かれるのです。







posted by さとうまさこ at 10:23| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする