2017年02月28日

エゼキエル書87 わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。(エゼキエル書24章15〜27節、レビ記21章1節2節)



 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書24章15節)
 「人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。(16節)
 声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」(17節)
 その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。(18節)

 エゼキエルの妻が「突然死ぬ」ことを、主は告げています。神の預言者デアルこと、神に召されるとは、こういうことも聞くのだと思い知らされます。妻は、突然死なのです。「一打ちで取り去る」ということばがそれを表わしています。これは、いつの時代にも起りうることですが、さまざまな死の中でも、突然死ほど残された者に痛手となる出来事はあるでしょうか。
 別れのための心の準備も覚悟も出来ていないのです。残された者はその分嘆きが大きいのです。ところが、エゼキエルは「嘆いてはならない」と命じられるのです。
 たしかに、レビ記21章1節に、祭司への戒めがあるのです。

 縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。(レビ記21章1節b)
 ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。(2節)

 ここに妻は出ていないのですが、聖書では夫婦の関係は親兄弟・子供たちより深いはずです。妻のために嘆かないエゼキエルをまわりの人はいぶかるのです。

 すると、民は私に尋ねた。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか。」(19節)

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 私(たち)は、物事が当たり前に進んでいる時には、疑問を思うすることはありません。食事が進み、食べたいものがちゃんと調達でき、いっしょに食べる仲間と笑顔を交わして食べ、次の食卓も同じように準備されると信じている時には、「飢え」は、観念的なものです。飢え死にしている人がいるので、食糧問題について考えるのです。また、考えるのがしぜんな行為です。同様に、人が死ぬ時には、そのための順当な反応をするのです。
 エゼキエルが妻の死を悲しんで見せないのは、人々に大きな疑問を抱かせ、そこに当然、神の御意思が働いているのを知り、預言者の預言を聞きたがったのです。
 何事でも、相手が聞こうとする時に語るのが一番効果的です。聞く耳をもっている時、言葉は彼の心にきちんと落ちていくでしょう。

 そこで、私は彼らに答えた。「次のような主のことばが私にあった。(20節)
 『神である主がこう仰せられるとイスラエルの家に言え。見よ。わたしは、あなたがたの力の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される。(21節)
 あなたがたはわたしがするようにすることになる。あなたがたは自分の口ひげをおおわず、人々からのパンを食べなくなる。(22節)
 頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはき、嘆いたり泣いたりしないようになる。ただ、自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。(23節)
 エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。(24節)

 エゼキエルの行為は、エルサレムが滅ぼされて、聖所が汚され、多くの同胞が殺される日の悲惨の預言なのです。あまりに、悲しく、あまりに悲惨であるとき、人々は反応することさえ忘れるのでしょう。

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 しかし、主は仰せなのです。

 人の子よ。わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日、(25節)
 その日、のがれた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る。(26節)
その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。』」(27節)

 主は、エゼキエルが語らなければならない日が来る、その日は「もう黙っていてはならない」と命じておられます。それは、彼が、回復の預言、慰めの預言を告げなければならないからです。







posted by さとうまさこ at 10:53| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする