2017年04月01日

エゼキエル書118 陥落後のエルサレムの悲惨(エゼキエル書33章21~33節)



 私たちが捕囚となって十二年目の第十の月の五日、エルサレムからのがれた者が、私のもとに来て、「町は占領された。」と言った。(エゼキエル書33章21節)
 そののがれた者が来る前の夕方、主の御手が私の上にあり、朝になって彼が私のもとに来る前に、私の口は開かれた。こうして、私の口は開かれ、もう私は黙っていなかった。(22節)

 エゼキエルのところに、エルサレムの陥落を告げる者がやってきます。この12年目第十の月の五日は、論議がある日付で、(新実用聖書注解・いのちのことば社)1の月が正しいのではないかとのことです。その場合でも、エルサレムが陥落した第五の月の七日から、半年も経っていることになります。
 主は、エゼキエルにエルサレムの状況を伝えて言われます。

 次のような主のことばが私にあった。(23節)
 「人の子よ。イスラエルの地のこの廃墟に住む者たちは、『アブラハムはひとりでこの地を所有していた。私たちは多いのに、この地を所有するように与えられている。』と言っている。(24節)

 多くの、しかも、有力者が捕囚に連れ去られたのでエルサレムには所有者のいない土地がたくさん残されました。このような状況の中で、驚くべきことに、エルサレムに残されたユダの人たちは、エルサレムの陥落を悲しむより、空き地になった土地の所有権に心が奪われているのです。

 第二次大戦後の日本でも、焼け跡になった多くの土地を、目ざとく買い集めた人たちがいました。人間の物欲はどの時代でも変わらないようですが、火事場泥棒のようなことをすることが、神の前に正しいことであるはずがありません。
 もちろん、主は、そのような強欲を咎めておられます。その理由は、彼らがどろぼうに成り下がり、すでに争いを始めていたからです。

 それゆえ、彼らに言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは血がついたままで食べ、自分たちの偶像を仰ぎ見、血を流しているのに、この地を所有しようとするのか。(27節)
 あなたがたは自分の剣に拠り頼み、忌みきらうべきことをし、おのおの隣人の妻を汚していながら、この地を所有しようとするのか。(26節)

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 空地の所有権を争って、すでに剣の戦いが繰り広げられていたのでしょう。神殿も王もいないところで、彼らは神も王も忘れ、隣人の妻を奪うことさえ公然と行なわれていたのです。そのような、神の戒めに反している者たちを、主は見逃されるはずがありません。

 あなたは彼らにこう言え。神である主はこう仰せられる。わたしは誓って言うが、あの廃墟にいる者は必ず剣に倒れる。野にいる者も、わたしは獣に与えてそのえじきとする。要害とほら穴にいる者は疫病で死ぬ。(27節)
 わたしはその地を荒れ果てさせ、荒廃した地とする。その力強い誇りは消えうせ、イスラエルの山々は荒れ果て、だれもそこを通らなくなる。(28節)
 このとき、わたしが、彼らの行なったすべての忌みきらうべきわざのためにその国を荒れ果てさせ、荒廃した地とすると、彼らは、わたしが主であることを知ろう。(29節)

 陥落後のエルサレムは荒廃の地となるという預言です。エルサレムの回復は、残された者たちによって行われるのではないと言われるのです。
 もちろん、神がそのような預言をエゼキエルの口に授けられ、エゼキエルがそれを民に語ったとしても、その深刻さは、すぐには伝わらなかったようです。

 人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』(30節)
 彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。(31節)
 あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。(32節)
 しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。」(33節)









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2017年04月02日

エゼキエル書119 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。 (エゼキエル書34章1節~11節)



 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書34章1節)
 「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。(2節)

 次の預言は、イスラエルの牧者たちに対するものです。牧者とは、この場合、指導層の人間を指しています。王、祭司、民の長老などです。聖書では、民の上に立てられた権威は神から来たものです。神が召されて王や指導者にされたのです。民が王や指導者に従うよう命じられているのは、それが「神の権威」によるものだからです。それだけに、上に立つ者は、神に対して責任があるのです。神の権威にふさわしく民を愛し、民を養わなければなりません。
 ところが、イスラエルの指導者といえども、おうおうにして、横暴な暴君になっていたのでしょう。

 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。(3節)
 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。(4節)

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 彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。(5節)
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。(6節)

 神の民(イスラエルとユダ)が捕囚として、各地に散らされるような運命をたどらなければならないのは、牧者が牧者としての役目を果たさず、私欲を貪り、羊を放置していたからだと、糾弾されています。羊の養いの中には、もとより外敵と戦って羊を守ることも含まれています。
 このような、牧者たちに対して、神は怒っておいでです。

 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。(7節)
 わたしは生きている、――神である主の御告げ―― わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。(8節)
 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。(9節)
 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。(10節)

 これは、神様の、牧者たちへの解任宣言です。神の御心を行なわない指導者たちは、神によって立てられたように、神によって倒されるのです。
 でも、心配いりません。神様は、指導者がいなくなった民に言われます。

 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。(11節)







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2017年04月03日

エゼキエル書120 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、 (エゼキエル書34章12節~23節)



 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。(エゼキエル書34章12節)

 イスラエルの牧者――かつて、神によって任命された指導者たちは解任されるのです。その後で、でも、神ご自身が「わたしの羊を救い出して、世話をする」と言って下さるのです。

 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。(13節)
 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。(14節)
 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ――(15節)

(すべてのところから)救い出して下さった後は、養って下さるのです。神様が養って下さる時は、山岳地にあるイスラエルでさえ、「良い折」「超えた牧場」になるのです。

 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。(16節)

 これは、旧約聖書にあるう預言のことばですが、もとより、新約の時代でも有効ですよね。イエス様は、失われた者を捜し出し、迷い出た者を連れ戻し…、イエス様は、このためにお出でになったんだと気が付くのです。(マタイの福音書15章24節)

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 わたしの群れよ。あなたがたについて、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、羊と羊、雄羊と雄やぎとの間をさばく。(17節)
 あなたがたは、良い牧場で草を食べて、それで足りないのか。その牧場の残った分を足で踏みにじり、澄んだ水を飲んで、その残りを足で濁すとは。(18節)
 わたしの群れは、あなたがたの足が踏みつけた草を食べ、あなたがたの足が濁した水を飲んでいる。(19節)
 それゆえ、神である主は彼らにこう仰せられる。見よ。わたし自身、肥えた羊とやせた羊との間をさばく。(20節)

 ここに来られる主は、救い主、癒し主であると同時に、裁き主のようです。羊と羊、雄羊と雄やぎの間を裁いて下さるのです。神が入れて下さった「神の国イスラエル」で、民を養うのではなく、自分だけが青草を食べ、清流を濁し、残りの羊を弱らせています。

 あなたがたがわき腹と肩で押しのけ、その角ですべての弱いものを突き倒し、ついに彼らを外に追い散らしてしまったので、(21節)
 わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度とえじきとならないようにし、羊と羊との間をさばく。(22節)
 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。(23節)

 横暴な牧者の代わりに来るのは、ダビデです。イスラエル王国の二代目の王ダビデのことでないのは、自明です。ダビデはこの時代よりも550年ほども昔に死んだ人です。けれども、神は、ダビデの家に「救い主」を送ってくださる約束をしておられます。
 ここでは、神が約束された救い主――イエス・キリストが預言されていると見るのはしぜんです。



   ★聖書は新改訳聖書を使っています。



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2017年04月04日

エゼキエル書121 あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。(エゼキエル書34章24節~31節)



 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。(エゼキエル書34章24節)
 わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。(25節)
 わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。(26節)
 野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。わたしが彼らのくびきの横木を打ち砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。(27節)

 聖書の神は、たんに全地を治める全能の方ではないと、私もわかっているのです。けれども、その神は、この時点では「主」――イスラエルの神だと気が付かされるのです。ぎゃくに言えば、イスラエルの人たちは、「神様!」とは特別な関係にあるということです。

 イエス・キリストにお会いするまで、私にとって、神なるお方はたしかに存在するとしても、火急の時に助けを叫ぶ相手、欲しいものを求めるときに思い出してお願いする対象、自分に都合のよい「魔法のランプ」や「魔法使いの指輪」みたいな存在だったような気がします。無理なお願いや不思議を聞いてくださる方なら、だれでもよかったのです。ほんとうに、「ある時はあの神を祀り、ある時は、この神に願い・・・」です。そのような民にとっては、八百万の神様がいらっしゃることはとても好都合なのです。たとえば、巨大なモールに行けば何でも揃うように、神様が揃っている・・そんな気がするのです。
 神様は、まるでずらりと居並ぶ美しいショップのように、「さあいらっしゃい。あなたの望む物を差し上げます。御代はいくらです」と待っているというわけです。事実時には、そこで自分の求めるものが手に入るかもしれない。たとえば、縁談、例えば希望大学への合格、また立派な会社からの採用通知、待ちに待った赤ちゃん。病気でさえ治ることもあるでしょう。ですが、買い物が終わればそれでおしまいです。「あの神様は聞いてくださる」ということが、信仰の条件です。そうでないなら、神様でさえないのです。

 けれども、聖書の神様は、つねに「主(主人)」である方です。イスラエルにとってそうであっただけでなく、神様の顔を見あげる者たちに、「わたしが主である」と言って下さるのです。

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 主であるお方は、民の深い必要に答えて下さいます。国の崩壊という深刻な不幸に直面している時、その根源的な原因を取り除いて下さるのです。

 彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない。(28節)
 わたしは、彼らのためにりっぱな植物を生やす。彼らは、二度とその国でききんに会うこともなく、二度と諸国の民の侮辱を受けることもない。(29節)

 捕囚の地で、またエルサレムに残されて、人々は目先の安心のためにたくさんのことを祈ったに違いありません。自分だけがバビロンの役人に気に入られるようにとか、隠し持っている金が盗まれませんようにとか、娘や息子が無事成長して、失ったものをとりかえしてくれるようにとか。エルサレムに残った者は、同胞の空き地を自分の物にしようと画策していたのです。いわゆる「焼け太り」です。主である神――聖書の神はもとより、このようなことはお聞き入れにならないでしょう。
 その理由は、神は「私の主」であるだけでないからです。イスラエルの家の主なのです。

 このとき、彼らは、わたしが主で、彼らとともにいる彼らの神であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう。――神である主の御告げ――(30節)
 あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。――神である主の御告げ――」(31節)

 自分個人だけに「良いこと」をしてもらいたい。あの人と私は特別な関係だというのは、人間の限界です。ここで神は厳しく宣告しています。「あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である」。







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2017年04月05日

エゼキエル書122 エドムへのさばきの宣告――わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。 (エゼキエル書35章1節~15節)




 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書35章1節)
「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、(2節)
 言え。
  神である主はこう仰せられる。
  セイルの山よ。
  わたしはおまえに立ち向かい、
  おまえにわたしは手を伸ばし、
  おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。(3節)
  わたしがおまえの町々を廃墟にし、
  おまえを荒れ果てさせるとき、
  おまえは、わたしが主であることを知ろう。(4節)
  おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。(5節)
 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ――わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。
 わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。(7節)
 わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。(8節)
 わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。(9節)

 イスラエルの回復の予兆を示して下さった神は、同時にセイルへのさばきを示しておられます。とても厳しいさばきです。「血に渡す」というのは、滅亡、それも剣による滅びを意味しているのです。逃げても、神の剣は追って来るのです。その結果、山々や丘や谷は死体にあふれ、永遠に荒れ果て、もう、セイル(エドム)は回復不能になるのです。

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 どうして、ここで、セイルへのさばきなのでしょう。
 イスラエル(神の選びの民)の回復に、セイルへのさばきは、絶対に必要な神のわざであったのでしょうか。仮にもエドムはアブラハムの直系の孫の一人ではないか。たしかに、ヤコブに騙された形で家督を奪われた時、エドムはヤコブを恨み、「必ず殺してやる」と言いました。けれども、20数年後エドムを通ってカナンに戻るヤコブに、エサウは寛大でやさしい兄として現れたのではなかったか、と思うのです。

 エサウとヤコブは、たしかに和解をしたわけではなく、何百年も過ぎるうちに二つの民族は対立関係になっていたわけです。イスラエル民族が、エジプトからカナンに上るとき、彼らの通行を阻んだのをはじめとして、いろいろの邪魔立てをし続けたわけですから、神は、その行いを責めておられるのかもしれません。

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  おまえは、『これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう。』と言ったが、そこに主がおられた。(10節)
 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ――おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。(11節)
 おまえはイスラエルの山々に向かって、『これは荒れ果てて、われわれのえじきとなる。』と言って、侮辱したが、主であるわたしがこれをみな聞いたことを、おまえは知るようになる。(12節)

 エドムが言った「二つの民、二つの国」とは、北王国イスラエルと南王国ユダのことです。神の選びの民が分裂し、神の国が多くの試練の中にあるとき、実際、エドムはイスラエル民族を滅ぼそうと何度も画策したのです。聖書には、二つの国の間で起った戦いが、たくさんの戦いが記録されています、 その後のエドム史は、イスラエルよりも弱くなり、けれどもイスラエルに敵対する歴史でありました。(Tサムエル記14章)(Uサムエル記8章)(T列王記16章〜)(U列王記3章)(U列王記8章)(U列王記14章)(U歴代誌28章)

 おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。(13節)
 神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。(14節)
 おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。(15節)

 長年にわたって敵対してきたこの近親憎悪の国を滅ぼすことが、イスラエルの回復に不可欠だったのでしょう。このようになって、初めて人々は(イスラエルはもちろん、まわりの国々も)「わたしが(イスラエルの)主であることを知ろう」と。仰せなのです。





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