2017年04月06日

エゼキエル書123 それゆえ (エゼキエル書35章1節~12節)



 人の子よ。イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ。主のことばを聞け。(エゼキエル書36章1節)
 神である主はこう仰せられる。敵がおまえたちに向かって、『あはは、昔からの高き所がわれわれの所有となった。』と言っている。(2節)
 それゆえ、預言して言え。神である主はこう仰せられる。実にそのために、おまえたちは、回りの民に荒らされ、踏みつけられ、ほかの国々の所有にされたので、おまえたちは、民の語りぐさとなり、そしりとなった。(3節)

 エドムを永久に葬るとの預言のあとです。今度は、イスラエルの山々への預言です。山々は象徴的に使われているのであって、本来その住民であるイスラエル人への預言と解釈できます。

 それゆえ、イスラエルの山々よ、神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷、荒れ果てた廃墟、また、回りのほかの国々にかすめ奪われ、あざけられて見捨てられた町々に、こう仰せられる。(4節)

 山々だけでなく、丘、谷川、谷、廃墟となった町、町々にも当てはめられています。そこに住んでいたイスラエル人への回復の預言です。
 これらの場所を攻撃し占有していたのは、エドム人なのでしょうか。

 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは燃えるねたみをもって、ほかの国々、エドム全土に告げる。彼らは心の底から喜び、思い切りあざけって、わたしの国を自分たちの所有とし、牧場をかすめ奪ったのだ。(5節)
 それゆえ、イスラエルの地について預言し、山や丘、谷川や谷に向かって言え。神である主はこう仰せられる。見よ。おまえたちが諸国の民の侮辱を受けているので、わたしはねたみと憤りとをもって告げる。(6節)

 ねたみは、聖書では怒りの中でももっとも強い感情です。怒りの中でも強いのは、愛する者を奪われたり傷つけられることでしょう。かつて、神ご自身が十戒の始めに、「わたしはねたむ神」と仰せになったように、(妻のように)愛するイスラエルの裏切りと同様、妻のように愛するイスラエルが奪われ傷つけられるとき、「ねたみをもって怒られる」のではないでしょうか。

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 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは誓う。おまえたちを取り囲む諸国の民は、必ず自分たちの恥を負わなければならない。(7節)

 人間の夫は、どれほど妻を愛していても彼女を守る力には限界があります。アブラハムでさえ、妻サラがエジプト人の目に止まったら、自分は殺されるかもしれないと思い、妻を「妹だと」偽ったのです。実際、サラを守って下さったのは、アブラハムではなく、神でした。ねたむほど私たちを愛して下さる神を夫とするのは、その意味で究極の「保護者」を得ることだと思います。

 だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。(8節)
わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。(9節)

 今度は文字通り、イスラエルの山々――その領土に対して語っておられます。
 イスラエルの回復が明言されています。

 わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。(10節)
 わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう (11節)
 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。(12節)









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2017年04月07日

エゼキエル書124 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。。 (エゼキエル書36章10節~15節)



 わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。(エゼキエル書36章10節)
 わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう (11節)
 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。(12節)
 神である主はこう仰せられる。彼らはおまえたちに、『おまえは人間を食らい、自分の国民の子どもを失わせている。』と言っている。(13節)

 エドムへのさばきが宣告された後、一転イスラエルの山々に対する預言が続いています。イスラエルの地の回復です。
 ここはシンプルに読めば、いわばイスラエルの山河と、もともとそこにいた民の帰還の「喜ぶべき関係の回復」です。現代の私たちでさえ、生まれ故郷があります。今ではそれは、親の転勤や移動の今日的な自由さのために、先祖からの故郷から切り離され、長い家族史とはあまり関係がないかもしれないのです。が、それでも、生まれ育った場所は、自分が忘れても土地が自分を忘れないというような感覚にとらわれることがあります。
 まして、イスラエルがカナンに入ったのは、神の定めでした。その地は、遠い日、神がハランにいたアブラハム(アブラム)に命じて、入らせた土地でした。そして、アブラハムに「与える」と約束して下さった土地でした。
 天地をお造りになった神は、当然、谷も山もお造りになったのですから、イスラエルの山々も、神の御心を受けて神から命をいただいているのを「知っている」はずです。
 詩篇には、しぜんも主をほめたたえよと歌われています。(詩篇148篇7節~9節)
 イスラエルの山々が、神の民の帰還の預言を受ける。神の民の帰還を喜ぶ、そのようにイスラエルの地を生きているものとして、神は語りかけておられるのでしょう。

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 それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない。――神である主の御告げ――(14節)
 わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。おまえの国民をもうつまずかせてはならない。――神である主の御告げ――」(15節)

 イスラエルの山々が、二度三度、「子を失わせている」と非難されているのは、その高き所で偶像礼拝が行われ、子供が犠牲としてささげられたことを意味しているでしょう。

 さとうなどは、山に祭壇が築かれて、そこで偶像礼拝の血が流されたとしても、「山に責任はない。行なったのは人だ」と思いたいのですが、山々も責任を取らなければならないほど、イスラエルの土地と人とは分かちがたい結びつきがあるということでしょうか。
 AD70年、ユダヤ戦争で完全に国を滅ぼされ、世界に離散したユダヤ人が、2000年の時を経てパレスチナに国を建てたその歴史は、このような神の期待――イスラエルとその土地との切り離しがたい結びつきを考えずには、理解できないのかなと思わされています。
 
 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。(36章12節)






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2017年04月08日

エゼキエル書125 選びの民の「さわり」と「さばき」(エゼキエル書36章16節~19節)



 さあ、いよいよイスラエルの回復の預言が始まります。
 しかし、回復に先立って、イスラエルが惨めに散らされなければならなかった理由について、主は、念を押されています。

 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書36章16節)
 「人の子よ。イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した。その行ないは、わたしにとっては、さわりのある女のように汚れていた。(17節)

 イスラエルの家は、「その行いとワザとによって、つまりみずから」彼らの地を汚した、のです。「さわりのある女」とは、月経中の女性のことで、これが「さわり」であることは、レビ記に記されています。(レビ記15章19節〜) 
 もっとも、女子である筆者としては、生理的な現象――それも生殖という神の意図されているプログラムのための――である月経を「さわり」とされることには抵抗を覚えるのは当然ですね。もしこの箇所だけにこだわったら一冊の本になるくらいのものかもしれません。

 じつは、これは、イスラエルの律法だけでなく、私たち日本の文化でも、長い間「不浄」とされていたことです。私の祖母の世代は、生理中には神社に入ってはいけないと信じていました。ただ、日本の場合、それほど厳格な戒律だったかどうかはわかりません。何といっても、現実の「生活が優先する」文化です。お産の場合でも、産後ゆっくり七日間も休息できるのは、恵まれた階級の人たちで、農家の嫁となれば、出産直前まで野良に出て働き、産み終わるとすぐにまた野良に戻ってきたなどというエピソードもあるほどです。牛、馬、犬などのように「出産」することが「丈夫な嫁、理想の嫁」の条件だったのです。

 いや、話が逸れてしまいました。

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 それでわたしは、彼らがその国に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのために、わたしの憤りを彼らに注いだ。(18節)
 わたしは彼らを諸国の民の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの行ないとわざとに応じて彼らをさばいた。(19節)

 主が、イスラエルの家を諸国へ散らされたのには、理由があったわけです。偶像礼拝、子供を犠牲にしたこと、それから、神の御心に反する多くの争い。
 同じように「血を流していた」国々は世界中にあったはずですが、とりわけイスラエルがフォーカスされているのは、わかりきったことですが、彼らが「神の選びの民」だからですね。選ばれるということは、責任、責めを負うものです。しかし、それゆえ、彼らは聖書に名が記され、人類の救いの歴史の重要な頁を埋めていたと思うのです。






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2017年04月09日

エゼキエル書126 回復の理由――わたしの名のために(エゼキエル書36章20節~28節、イザヤ書49章15節)



 彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。(エゼキエル書36章20節)
 わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。(21節)
それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。(22節)
 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――(23節)

 神が、捕囚になっているイスラエルの民を彼らの相続地に帰して下さる日がくるのです。そのこと自体、不思議な出来事です。一度粉々になってしまって散らばったパンをもう一度一個のパンに戻すのは、人間の目から見たら不可能なことです。
 捕囚の民は、自分たちで自主的に国を出た移民ではありません。捕らわれ人なのです。バビロン捕囚から開放されるためには、バビロンの王の許可が必要です。でなければ、自分たちで軍隊を起こせるほどの力をつけるしかありません。
 ところが、聖書読者がすでにご存知のように、イスラエルの家は帰還を果たし、神殿を再建したのです。
 それは、主が「事を行なって」下さったからです。その理由は、主は、主であられるからですね。イスラエルの民を神の選びの民とされたこと、その真実を証しされるためだったのではないでしょうか。

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 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。(24節)
 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、(25節)
 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(26節)

 神様は、神様ご自身がイスラエルの家に「きよい水を振りかける」と仰せなのです。神ご自身が、イスラエルの家を洗って下さるのです。そして、汚れからきよめて下さったあとは、新しい心と新しい霊を授けて下さるのです。
 石の心を取り除き、肉の心を与えると仰せなのです。この二つの対比は、何かほっとさせる譬えではないでしょうか。
 石の心は、うなじのこわいと表現される態度でしょう。肉の心は、そこに温かい血のやさしさ、人間本来の素直さと柔らかさを思わせます。
 咎められることを行なった時、思わず固まって「石の心になる」のが人の弱さかもしれません。これは、敵にあった時に殻にこもる貝と何ら変わらない「いのちの反応」でしょうが、神はそのような「かたくなな」態度でさえ、やわらがせて下さるようです。

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 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(27節)

 ただ、元の家に戻って来ただけでは仕方がありません。イスラエルの民に対して、神が新しい霊を授けて下さることで、神の民としての歩みをもう一度はじめることができるというのです。

 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。(28節)

 このいきさつは、イザヤはすでに、預言しています。

  女が自分の乳飲み子を忘れようか。
  自分の胎の子をあわれまないだろうか。
  たとい、女たちが忘れても、
  このわたしはあなたを忘れない。   (イザヤ書49章15節)









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2017年04月10日

エゼキエル書127 回復して下さる神――わたしの名のために(エゼキエル書36章29節~38節)



 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。(エゼキエル書36節29節)
 わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。(30節)
 あなたがたは、自分たちの悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。(31節)
 わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。――神である主の御告げ――イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ。(32節)
 神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。(33節)
 この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。(34節)

 36章は、もともとイスラエルの山々に向かってなされた預言です。イスラエルの山々は、イスラエルの家のいわば畑であり、牧場です。その住人とは切っても切れない関係であることで、イスラエルの山々も喜ぶのです。

 さとうは、ここで、すでに読んだみことば、「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰ってくるのが近いからだ。」(36章8節)を思い出すのです。しかし、山々が荒れ果てたのはイスラエルの家の行いによるのです。預言は17節から、イスラエルの家に対するものに変わっています。彼らの行いとわざが主の怒りを招いたのです。
 ただ、そのような民を神は、きよい水を振りかけて回復して下さるのです。
 その理由は、ただ一つ。「神ご自身の聖なる名のため」です。

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 このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった。』と。(35節)
 あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう(36節)。
 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。(37節)
 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(38節)

 おりしも、イースターを迎えています。主イエスが私たちの罪を負って十字架に掛かって下さったこと、そのために私たちは、(自分の力ではなく)真っ白になった姿で神の御前に出ることができるようになったことを思い起こさせてくれます。
 さらに、イエス様はよみがえられ、復活されたというのは、私の希望です。
それは、かつて、人類が生まれた楽園で、私たちが永遠に、神とともに生きることができるための道であることを、改めて思わされるのです。

 エゼキエル書のこの箇所を読みながら、聖書は、まったくすべての箇所が意味を共有する大きな「物語」なのだと、これもまた、改めて思わされるのです。
 私たちが自分で、自分の罪の代価を払えないことが、それは、神ご自身が支払って下さることが、エゼキエル書でも明確に語られている、このことに、驚きと感謝を新たにするのです。







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