2017年04月11日

エゼキエル書128 干からびた骨に命を与えられる神(エゼキエル書37章1節~10節)



 エゼキエル書37章は、とても大切なメッセージが含まれている、と多くの聖書解説文が語っています。エゼキエルは、神から捕囚の民に預言する預言者として、召されています。彼自身、祭司だったのですが、捕囚の民だったのです。ユーフラテス川の支流のケバル川のほとりのユダヤ人居住区にいたのです。
 エゼキエルは、エホヤキン王がバビロンのネブカデレザルに降伏して第二次捕囚となった時に、いっしょに従ったのでした(BC597年)。その時、まだ、エルサレムは陥落していなかったので、この時に捕囚の民は、絶望と希望とがないまぜになった葛藤の中にいたと思われます。彼らは、いつか自分たちが国に帰ることを望んで、エルサレムの様子や自分たちの未来について、預言を求めていたのも事実でしょう。

 今のように一瞬にして、地球の裏側の情報が届くわけでもありません。エゼキエルが神の召しを受けたのは、捕囚になって五年目ですから、BC592年です。その時、エルサレムはネブカデレザルが選んだゼデキヤが王となっていました。傀儡の王とは言え、まだユダヤ人の王が君臨しているのですから、捕囚の民にはいくらかの希望が残されていたはずです。けれども、ゼデキヤは、密かに自主独立路線を模索し、エジプトとの関係回復を試み、残された国力さえ使い果たしていくのです。
 エゼキエルの預言は、国に残った王や民に希望を託す捕囚の人たちに、容赦のないものでした。ユダはさばかれるのです(エゼキエル書34章)。同時に、ユダを攻めた国々もさばかれるのです。(同25章~32章)

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 これまでの峻厳さと同じはげしさで主は、エゼキエルにイスラエルの山々への預言を命じられます。それから、一挙に、イスラエルの回復が語られます。

 とても、劇的で絵画的なイメージの預言は、エゼキエル書の山場です。
死んだ人たち、すでに朽ち果てて白骨化した人間が、甦ってくる描写です。余計な説明なしで、胸に迫ってくるものがあるのではないでしょうか。

 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。(エゼキエル書37章1節)
 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。(2節)
 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」(3節)
 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。(4節)
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。(5節)

 死んだ者の甦り――再生を神が預言されるとき、なんと骨は互いに集まり、肉や皮膚が生じ、その朽ち果てたとちょうど逆の姿で、人間の姿になるのです。
 形があって生きる者となるために必要なものは、神の息だけです。ちょうど最初の人間アダムを土の塊から人の形にし、そこへ「いのちの息」を吹き込まれたら、「生きた者となった」ように、事実、エゼキエルの目の前で多くの人が生き返り立ち上がります。

 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」(6節)
 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。(7節)
 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。(8節)
 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」(9節)
 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。(10節)






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2017年04月12日

エゼキエル書129 回復して下さる神2――わたしの名のために(エゼキエル書37章11節~14節)



 エゼキエルは、神によって骨の散乱した谷間に連れていかれました。神は、「これらの骨は生き返ると思うか」とお尋ねになりました。
 それから、

 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。(4節)
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。(5節)

 そして、
 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。(10節)
 というのです。

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 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。
(エゼキエル書37章11節)
 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。(12節)

 神が捕囚の民に、「イスラエルの地に連れて行く」と仰せになっているのです。もともと、神がイスラエルの家を入れられたカナンの地は、人間的に見れば、「望郷の地、父祖伝来の彼らの住まい」に過ぎないかもしれません。しかし、イスラエルの民が故郷から切り離されることは、神から切り離されてしまうこと、永遠の死も同然であると、信仰から迷い出て罰せられた人たちでも、「わかっていた」はずです。神殿は、いわばイスラエルのかしらであり、心臓であり、その理由は、そこに神が降りて来てくださるいわば、イスラエルの盾、巌、城壁だったはずです。
 イスラエルが神の選びの地から切り離された時に、彼らの絶望は、生きていながら死んだも同然、枯れた骨のようだったのです。
 主は、生きていても「枯れた骨」のようになっている者と同様に、すでに異郷の地で死んだ者の墓にある骨までも、回復して下さるのです。

 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(13節)
 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ――」(14節)

 主をないがしろにした民、主にねたみを起こさせた忘恩の子供たちを、回復して下さるのは、主が「その御名を惜しまれた」からです。
 人を愛され、罪を犯して御前から追放された聖書の神様ですが、もとより、それは、罪をあいまいに許容なさらない神の愛の表れでした。神様は、追放直後から人を御許に連れ帰るご計画をもち、その大切な役割を受ける民としてアブラハムを選ばれ、イスラエルを育成し、文字通り、全能の父として彼らとともにおられたのです。
 神様は幾度も仰せです。「このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう」

 いまが、「この時」なのです。




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2017年04月13日

エゼキエル書130 二本の杖を使った預言(エゼキエル書37章11節~14節)



 主は、ふたたび、エゼキエルに、パフォーマンスによる預言をお命じになります。

  次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書37章15節)

 神とシナイで契約を結んでいただいて、神聖政治国家イスラエルが建てられました。それから、40年後にイスラエルは約束の地カナンをいただき、文字通り領土を伴なう「国家」となりました。さらに王国となり、エルサレムを取得し、ダビデ・ソロモンのもとで強力な王国になったように見えました。ところが、ソロモンの罪のために主は王国を引き裂かれ、エフライム人ヤロブアムを選んで十部族を与え、北王国を立てさせられたのです。(BC931年) 以後、イスラエル王国は弱体化の一途をたどり、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ(BC722年)、南ユダ王国は、バビロンにより壊滅させられます。(BC586年)

 エゼキエルは南ユダ王国の祭司であり、エゼキエルとともにいる捕囚たちもユダから連れて来られた民でした。彼らにとって、関心は自分たちが帰国できるかどうか、ユダ王国の行く末がどうなるのかだったと思われます。100年以上も前に滅びて世界に離散した北王国の同胞にどれほど関心があったことでしょう。

 ところが、神はエゼキエルに二本の杖を彼らの前で見せて、それを一つにせよ。と仰せなのです。

 「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために。』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために。』と書きしるせ。(16節)
 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。(17節)
 あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これはどういう意味か、私たちに説明してくれませんか。』と言うとき、(18節)

 民は、北イスラエルの諸部族との合体を、当然不思議に思うのです。そんなことは、主はすでにご承知です。

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 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。(19節)
 あなたが書きしるした杖を、彼らの見ている前であなたの手に取り、(20節)
 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。(21節)

 エフライムはもともと、ヤコブの11番目の息子ヨセフのふたりの息子の一人でした。長男がマナセ、次男がエフライムでした。しかし、ヤコブが死に際に、なぜかエフライムの方に大きな権威を与えています。イスラエル民族の中で大きな働きをすると明言する場面があります。
 それはそのとおりになって、エフライム族はベニヤミン族、ユダ族とともに、イスラエルの中心部に入植するのです。

 イスラエル王国が分裂することは、すべてをご存知の神様にとっては、「織り込み済みだった」かも知れませんが、それは、イスラエル人にとっては大きな不幸だったのです。
 二つに割れた碗をどのように使って見ても、一つであったときの役割りは果たせません。
 捕囚の民に不幸は、国を失ったこと、国を失う原因は、イスラエル人同士の抗争――その原因は、唯一の神を忘れて偶像礼拝に陥ったことです。神が、ばらばらになったイスラエル人たちをもう一度、彼らの地で一つにして下さると、「杖のパフォーマンス」で語っておられるのです。







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2017年04月14日

エゼキエル書131 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。(エゼキエル書37章22節~28節)



 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。(エゼキエル書37章22節)
 彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(23節)


 イスラエルが、彼らの相続の地(イスラエルの山々)に戻って来たあかつきには、今度は一つの国となると、神は仰せです。以前のように、二つの王国に分かれることはなく、一人の王が治めるのです。
 それは、神が特別に選んでイスラエルの王にお立てになったダビデだというのです。

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 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。(24節)
 彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。(25節)

 ダビデ王は、BC1011年にヘブロンで、即位した王です。サムエルから油を注がれたのは、少なくともそれより十年も以上前です。そのダビデがもう一度現れてイスラエルを治めるとはどういうことかと、ここで読者(預言を聞いている者)が問いかけるように書かれていると思います。

 イスラエル王国の始まりはサウル王でしたが、彼は神によって立てられ、その神から廃された王でした。しかし、神は、次の王ダビデには、特別な契約・ダビデ契約を結んでくださって、「彼はわたしのために一つの王国を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも固く立てる。」とお約束して下さったのです。「あなたの家とあなたの王国とは、私の前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまでも固く立つ。」(Uサムエル記7章13節〜16節)
 捕囚の民がふたたびイスラエルに帰還して、王国を建てるというのは、まさに、神様のダビデとの契約だったことを、捕囚の民は思い出したことでしょう。
 それだけに、エゼキエルの預言には真実に迫る迫力があったはずです。

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 現代の私たちが、ここでなされたエゼキエルの預言――イスラエルの回復の預言は、さらに深い大きな意味をもっています。
 イザヤの預言にあるように、それはメシヤ預言に通じているのです。

   エッサイの根株から新芽が生え、
   その芽から若枝が出て実を結ぶ
  
(イザヤ書11章1節)

 イエス・キリストが公生涯を始められた時、その絶大な力と言葉に対して、多くのイスラエル人が熱狂しました。その理由は、「この方こそ、イスラエルを救い、国を再興して下さる王に違いない」と思ったからでした。

 たしかに、この時代、エゼキエルの預言のように捕囚の民は帰還し、神殿も再建されたのですが、独立国イスラエルを取り戻すことはできませんでした。その日が、いつか来るという希望は、このような聖書の預言の中で、イスラエルの民の大きな期待となって身ごもったに違いありません。

 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。(26節)
 わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(27節)
 わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」(28節)









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2017年04月15日

エゼキエル書132 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。(エゼキエル書37章26節~28節)



 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。(エゼキエル書37章26節)

 エゼキエル書の預言は、ここでこの時代を超越してしまっています。それは、新約の民である私たちには、「わかる」ことです。神様が平和の契約を結んでくださる。それはとこしえの契約になるというのです。

 神様が私たち人間との間に契約を結んでくださって、聖書の歴史が前進してきたように思います。ノア契約、アブラハム契約、シナイ契約、モアブ契約、ダビデ契約。最初は、ただ一人の人ノアに顕現されて、祝福と繁栄をお約束になった神が、しだいに、家族単位に、民族単位に、国単位にと契約の対象を広げ、やがて、全人類への契約となって完結する「新しい契約」で、聖書が完結する、これは、キリスト者の希望の源です。

 捕囚の民にとっては、イスラエルの山々に帰還することが「救い」であり、「願い」であったでしょうが、神は、もっと先のまぼろしについて言及しておられるのではないでしょうか。キリスト(救い主)による真に平和で、とこしえの契約です。
 この預言が当時の人たちには全面的に理解できない物であっても記録されたところに、神のことばのリアルがありますし、自分の理解などにこだわらず預言した預言者の価値を思います。

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 おりしもイースターを迎えました。イエス・キリストが十字架刑で、全人類の罪を背負って(一度)死なれた痛みと、三日目によみがえられた喜びとを新たに噛みしめる記念日です。
 この奥義で、もはや聖所も祭司も預言者も廃され、直接、「神の聖所」を「内において下さる」神を知った時、もはやどこにも連れ去られない「新しい神の民」の誕生と「永遠の平和」が約束されているのを知らされていると思わざるを得ません。

 この箇所を、現代史の中のイスラエル国家のあり方と結びつけて解説する向きもあります。しかし、不明なさとうにとっては、現在、以下の部分についての、感想を書くことさえできないのを告白します。

 わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(27節)
わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」(28節)








posted by さとうまさこ at 10:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする