2017年04月04日

エゼキエル書121 あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。(エゼキエル書34章24節~31節)



 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。(エゼキエル書34章24節)
 わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。(25節)
 わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。(26節)
 野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。わたしが彼らのくびきの横木を打ち砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。(27節)

 聖書の神は、たんに全地を治める全能の方ではないと、私もわかっているのです。けれども、その神は、この時点では「主」――イスラエルの神だと気が付かされるのです。ぎゃくに言えば、イスラエルの人たちは、「神様!」とは特別な関係にあるということです。

 イエス・キリストにお会いするまで、私にとって、神なるお方はたしかに存在するとしても、火急の時に助けを叫ぶ相手、欲しいものを求めるときに思い出してお願いする対象、自分に都合のよい「魔法のランプ」や「魔法使いの指輪」みたいな存在だったような気がします。無理なお願いや不思議を聞いてくださる方なら、だれでもよかったのです。ほんとうに、「ある時はあの神を祀り、ある時は、この神に願い・・・」です。そのような民にとっては、八百万の神様がいらっしゃることはとても好都合なのです。たとえば、巨大なモールに行けば何でも揃うように、神様が揃っている・・そんな気がするのです。
 神様は、まるでずらりと居並ぶ美しいショップのように、「さあいらっしゃい。あなたの望む物を差し上げます。御代はいくらです」と待っているというわけです。事実時には、そこで自分の求めるものが手に入るかもしれない。たとえば、縁談、例えば希望大学への合格、また立派な会社からの採用通知、待ちに待った赤ちゃん。病気でさえ治ることもあるでしょう。ですが、買い物が終わればそれでおしまいです。「あの神様は聞いてくださる」ということが、信仰の条件です。そうでないなら、神様でさえないのです。

 けれども、聖書の神様は、つねに「主(主人)」である方です。イスラエルにとってそうであっただけでなく、神様の顔を見あげる者たちに、「わたしが主である」と言って下さるのです。

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 主であるお方は、民の深い必要に答えて下さいます。国の崩壊という深刻な不幸に直面している時、その根源的な原因を取り除いて下さるのです。

 彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない。(28節)
 わたしは、彼らのためにりっぱな植物を生やす。彼らは、二度とその国でききんに会うこともなく、二度と諸国の民の侮辱を受けることもない。(29節)

 捕囚の地で、またエルサレムに残されて、人々は目先の安心のためにたくさんのことを祈ったに違いありません。自分だけがバビロンの役人に気に入られるようにとか、隠し持っている金が盗まれませんようにとか、娘や息子が無事成長して、失ったものをとりかえしてくれるようにとか。エルサレムに残った者は、同胞の空き地を自分の物にしようと画策していたのです。いわゆる「焼け太り」です。主である神――聖書の神はもとより、このようなことはお聞き入れにならないでしょう。
 その理由は、神は「私の主」であるだけでないからです。イスラエルの家の主なのです。

 このとき、彼らは、わたしが主で、彼らとともにいる彼らの神であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう。――神である主の御告げ――(30節)
 あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。――神である主の御告げ――」(31節)

 自分個人だけに「良いこと」をしてもらいたい。あの人と私は特別な関係だというのは、人間の限界です。ここで神は厳しく宣告しています。「あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である」。







posted by さとうまさこ at 08:30| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする