2017年04月07日

エゼキエル書124 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。。 (エゼキエル書36章10節~15節)



 わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。(エゼキエル書36章10節)
 わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう (11節)
 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。(12節)
 神である主はこう仰せられる。彼らはおまえたちに、『おまえは人間を食らい、自分の国民の子どもを失わせている。』と言っている。(13節)

 エドムへのさばきが宣告された後、一転イスラエルの山々に対する預言が続いています。イスラエルの地の回復です。
 ここはシンプルに読めば、いわばイスラエルの山河と、もともとそこにいた民の帰還の「喜ぶべき関係の回復」です。現代の私たちでさえ、生まれ故郷があります。今ではそれは、親の転勤や移動の今日的な自由さのために、先祖からの故郷から切り離され、長い家族史とはあまり関係がないかもしれないのです。が、それでも、生まれ育った場所は、自分が忘れても土地が自分を忘れないというような感覚にとらわれることがあります。
 まして、イスラエルがカナンに入ったのは、神の定めでした。その地は、遠い日、神がハランにいたアブラハム(アブラム)に命じて、入らせた土地でした。そして、アブラハムに「与える」と約束して下さった土地でした。
 天地をお造りになった神は、当然、谷も山もお造りになったのですから、イスラエルの山々も、神の御心を受けて神から命をいただいているのを「知っている」はずです。
 詩篇には、しぜんも主をほめたたえよと歌われています。(詩篇148篇7節~9節)
 イスラエルの山々が、神の民の帰還の預言を受ける。神の民の帰還を喜ぶ、そのようにイスラエルの地を生きているものとして、神は語りかけておられるのでしょう。

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 それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない。――神である主の御告げ――(14節)
 わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。おまえの国民をもうつまずかせてはならない。――神である主の御告げ――」(15節)

 イスラエルの山々が、二度三度、「子を失わせている」と非難されているのは、その高き所で偶像礼拝が行われ、子供が犠牲としてささげられたことを意味しているでしょう。

 さとうなどは、山に祭壇が築かれて、そこで偶像礼拝の血が流されたとしても、「山に責任はない。行なったのは人だ」と思いたいのですが、山々も責任を取らなければならないほど、イスラエルの土地と人とは分かちがたい結びつきがあるということでしょうか。
 AD70年、ユダヤ戦争で完全に国を滅ぼされ、世界に離散したユダヤ人が、2000年の時を経てパレスチナに国を建てたその歴史は、このような神の期待――イスラエルとその土地との切り離しがたい結びつきを考えずには、理解できないのかなと思わされています。
 
 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。(36章12節)






posted by さとうまさこ at 10:35| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする