2017年04月09日

エゼキエル書126 回復の理由――わたしの名のために(エゼキエル書36章20節~28節、イザヤ書49章15節)



 彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。(エゼキエル書36章20節)
 わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。(21節)
それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。(22節)
 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――(23節)

 神が、捕囚になっているイスラエルの民を彼らの相続地に帰して下さる日がくるのです。そのこと自体、不思議な出来事です。一度粉々になってしまって散らばったパンをもう一度一個のパンに戻すのは、人間の目から見たら不可能なことです。
 捕囚の民は、自分たちで自主的に国を出た移民ではありません。捕らわれ人なのです。バビロン捕囚から開放されるためには、バビロンの王の許可が必要です。でなければ、自分たちで軍隊を起こせるほどの力をつけるしかありません。
 ところが、聖書読者がすでにご存知のように、イスラエルの家は帰還を果たし、神殿を再建したのです。
 それは、主が「事を行なって」下さったからです。その理由は、主は、主であられるからですね。イスラエルの民を神の選びの民とされたこと、その真実を証しされるためだったのではないでしょうか。

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 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。(24節)
 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、(25節)
 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(26節)

 神様は、神様ご自身がイスラエルの家に「きよい水を振りかける」と仰せなのです。神ご自身が、イスラエルの家を洗って下さるのです。そして、汚れからきよめて下さったあとは、新しい心と新しい霊を授けて下さるのです。
 石の心を取り除き、肉の心を与えると仰せなのです。この二つの対比は、何かほっとさせる譬えではないでしょうか。
 石の心は、うなじのこわいと表現される態度でしょう。肉の心は、そこに温かい血のやさしさ、人間本来の素直さと柔らかさを思わせます。
 咎められることを行なった時、思わず固まって「石の心になる」のが人の弱さかもしれません。これは、敵にあった時に殻にこもる貝と何ら変わらない「いのちの反応」でしょうが、神はそのような「かたくなな」態度でさえ、やわらがせて下さるようです。

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 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(27節)

 ただ、元の家に戻って来ただけでは仕方がありません。イスラエルの民に対して、神が新しい霊を授けて下さることで、神の民としての歩みをもう一度はじめることができるというのです。

 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。(28節)

 このいきさつは、イザヤはすでに、預言しています。

  女が自分の乳飲み子を忘れようか。
  自分の胎の子をあわれまないだろうか。
  たとい、女たちが忘れても、
  このわたしはあなたを忘れない。   (イザヤ書49章15節)









posted by さとうまさこ at 10:39| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする