2017年04月27日

エゼキエル書142 神殿の意味するもの(エゼキエル書40章48節49節、出エジプト記25章10節~22節)



 昨日のエッセイは中途半端なところで終わってしまいました。

 聖書において、神殿は非常に大切な結び目です。「神様と人間との結び目」です。幕屋の建設を命じられた時から、神が人に語っておられるのですから、それは明瞭でした。神が人にお語りになる――神と人との対話は、エデンの園から存在することですが、楽園を追放されてからは、人と神との間は、何者かによって妨げられてしまっています。罪の世界――悪魔の支配する世界に堕ちてしまった人間にとって、神様といつでもお会いし、お話しするのは、不可能になってしまいました。

 罪に罪を重ねる人間に対して、神は、どうしても必要な時には語りかけておられます。たとえば、弟アベルに殺意を抱いているカインに対してです。(創世記4章)
 また、罪にまみれた人類が増え広がったことを後悔された時には、ノアの家族を箱舟に避難させて大洪水を起こし、地上をいったんリセットされたのです。(創世記8章)
 神の選びの民の始祖としてアブラハムを選びだされた時には、何度も彼に現れて語りかけておられます。(創世記12章〜)また、アブラハムもまた、神の顕現を真摯に受け止めて礼拝できる人でした。アブラハムやイサクやヤコブは、何度も祭壇を築き、神の顕現と祝福に感謝して礼拝しています。しかし、その祭壇は、彼らがそこに何度も出かけて礼拝する「聖所」ではなく、神様も、「ここに来さえすれば、わたしはいつでもあなたと語ろう」などと約束されたわけではありません。

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 イスラエルの民と契約を結んで永続的な「選びの民」を導くことを決意された時、神は初めて、神の側からの命令としての「祭壇」の制作をお命じになったと見ることができるのではないでしょうか。それが、出エジプト記における幕屋建設のご命令でしょう。
 出エジプト記25章から40章までの長い綿密な幕屋と祭司への言及は、素朴な物語を読む気持ちで、聖書を読み進めて来た者にとっては、たいへん困難を覚えるきつい上り道です。

 神の尋常ならぬ奇蹟の後押しで、強大な権力を誇るエジプトのパロのくびきから解放され、最後は葦の海が割れて、渇いた海の底を渡って逃れたイスラエルの物語、シナイ山という神秘の山で神から十戒をいただき、契約をしていただく出エジプト記は、映画に見るように、ダイナミックでドラマチックなのです。

 イスラエルは、このあと、契約の民が神の民としてあり続けるために必要な律法、おきて、その細則を与えられ、選びの民としての自覚を促されます。また、あかしの箱の制作に始まる、聖所、至聖所、幕屋とその備品の制作を命じられるのです。それが神殿の始まりでした。

 その意味を、神は、みずからモーセにお語りになっています。

 アカシヤ材の箱を作らなければならない。――(出エジプト記25章10節)
 ――箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。(同21節)
 わたしはそこであなたと会見し、その贖いのふたの上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間 から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。(22節)

 幕屋制作の最初であるこの箇所の意味の重さを、エゼキエル書まで読んできて、ようやくそれに気が付くさとうは、ほんとうに目が見えないのだなあと思わせられます。

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 彼が私を神殿の玄関の間に連れて行って、玄関の間の壁柱を測ると、両側とも五キュビトであり、その門の幅は十四キュビト、その門の両わきの壁は、それぞれ三キュビトであった。(エゼキエル書40章48節)
 玄関の間の間口は二十キュビト、奥行は十二キュビトであった。そこへ上るのに階段があり、両側の壁柱のそばにはそれぞれ円柱が立っていた。(49節)










posted by さとうまさこ at 10:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする