2017年05月04日

エゼキエル書147 神殿――民が造らなければならないもの(エゼキエル書43章10節〜14節)



 人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために、彼らに神殿を示し、彼らにその模型を測らせよ。(エゼキエル書43章10節)
 もし彼らが、自分たちの行なったあらゆることを恥じるなら、あなたは彼らに神殿の構造とその模型、その出口と入口、すなわち、そのすべての構造、すべての定め、すべての構造、すべての律法を示し、彼らの目の前でそれを書きしるせ。彼らが、そのすべての構造と定めとを守って、これを造るためである。(11節)
 宮に関する律法は次のとおりである。山の頂のその回りの全地域は最も神聖である。これが宮に関する律法である。(12節)

 ここは、エゼキエルに示された神殿のイメージを民に示すようにとの御命令です。第二神殿まで破壊されてしまったと聞いた捕囚の民は、虚脱と絶望のなかにいたことでしょう。未来に回復される神殿の模型図と神殿回復の約束は、「神の民・イスラエル」の人たちには、究極の希望だったのではないでしょうか。

 新実用聖書注解は、この箇所について、「神殿の構造はあらゆる点において主の聖さを示し、それを守るものであるので、それが民に示されると、民は自分たちがそのような主の聖さを汚してきたことを悟るようになることが期待されている。(p1123)」と、語っています。

 この解説の先にあるのは、これほどの聖い神が、それでも、あえて罪を犯した者たちに、チャンスを与えて下さっているのがわかることです
 それは、神が仰せのとおりに、神殿をもう一度立て直すチャンスです。

 究極の神殿は、キリストがお出でになって完成させて下さったと思うのです。キリストを信じる信仰だけで、罪を許され、永遠の御国に入れていただけるなんて、エゼキエルの時代の人たちは知っていた?
 神様が、私たちに求めておられるのは、知識ではなく、従順なんですね。ご命令に従って「造る」ことなんだと、筆者は思ったのです

★★★★★

 神様がお示しになる神殿を造ることで、聖い神が私たち罪ある者の罪を許して下さるとすれば、この場合、神殿の中で、重要な設備が必然的に、語られることになります。

 罪ある人間は、神に近づくために、罪の代価として犠牲を携えて行ったのです。空手(からて)=手ぶらというわけにはいきません。祭壇は犠牲を屠ったり、供えたりする場所ですから、ここを通過することなしに、神の御前に出ることはかないません。
 そこで、祭壇に対する正確な寸法とデザインが示されています。

 キュビトによる祭壇の寸法は次のとおりである。――このキュビトは、普通のキュビトに一手幅足したものである。――その土台の深さは一キュビト、その回りの縁の幅は一キュビト、みぞは一あたりである。祭壇の高さは次のとおりである。(13節)
 この地面の土台から下の台座までは二キュビト、回りの幅は一キュビト。この低い台座から高い台座までは四キュビト、その回りの幅は一キュビト。(14節)






posted by さとうまさこ at 10:33| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする