2017年05月08日

エゼキエル書151 祭司への戒め――死者とのかかわり、(エゼキエル書44章24節〜26節)



 (a)争いがあるときには、彼らは、わたしの定めに従ってさばきの座に着き、これをさばかなければならない。(b) わたしのすべての例祭には、わたしの律法とおきてとを守り、わたしの安息日を聖別しなければならない。(エゼキエル書44章24節)

 祭司の仕事は、祭祀儀礼を取り行うことだけではありません。神にお伺いを立てることができる祭司は、(a)にあるように裁判も行うのです。それは(b)のように、律法(法)を扱い、行う立場としては当然のことだったのです。神聖政治国家での法律は、もともとは神の御命令から来ていますから、安息日や様々な例祭を聖別することが第一に置かれているのです。

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 祭司としての個人的な戒めは、ふつうの人なら当然行う「弔いへの参加」にも及んでいます。死者に触れることは、身を汚すと考えられたため、祭司はごく近い身内以外の弔いには参加できませんでした。

 彼らは、死人に近づいて身を汚してはならない。ただし、自分の父、母、息子、娘、兄弟、未婚の姉妹のためには汚れてもよい。(25節)
 その場合、その人は、きよめられて後、さらに七日間待たなければならない。(26節)

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 祭司が葬儀を行なわないことについて、以前ネットで非難する投稿がありました。神様に仕えていて死者を避けるなんて、けしからんというわけです。

 しかし、これは、投稿者の「無知」だと言いきれます。死者が忌むべき者というのは、日本人も長い間その考えで葬送を行なって来ました。

 葬儀中の家には、「忌中」の紙が貼られました。葬儀から戻ってきた遺族のために家の門口に塩を盛っておいたり、家に入る人の体に塩をふりかけたりしたのは、「浄めの塩」です。(今では、小さな袋に入った塩が配られるようです)さとうの子どもの頃は、亡くなった方の枕元に、はさみなどの刃物を置いたのです。悪霊が近寄らないためだったようです。
 また、伝統的に仏教は葬儀を行ないますが、神道は、葬儀を行う場合にも、神社の敷地では行わないと言われています。
 ある人たちが主張しているように、神道が、じつはユダヤ教の影響を受けているというのは、私には確かめようもないのですが、聖書の記述を非難する場合は、その裏付けに責任があると思います。






posted by さとうまさこ at 08:37| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする