2017年05月15日

エゼキエル書158 いけにえの行方(エゼキエル書46章19節〜24節)



 それから、彼は私を、門のわきにある出入口から、北向きになっている祭司たちの聖所の部屋に連れて行った。すると、西のほうの隅に一つの場所があった。(エゼキエル書46章19節)
 彼は私に言った。「ここは祭司たちが、罪過のためのいけにえや、罪のためのいけにえを煮たり、穀物のささげ物を焼いたりする場所である。これらの物を外庭に持ち出して民を聖なるものとしないためである。」(20節)


 罪過のためのいけにえとは、目に見える罪、法的な賠償をしなければならない罪過のためにささげられました。(新聖書辞典。いのちのことば社) 罪のためのいけにえと同義に用いられている場合も多いのですが、概していえば、罪過のためのいけにえは、隣人に対する罪過、罪のためのいけにえは、神に対する罪です。(同辞典)

 いずれにしても、いけにえをささげて神におわびをするのは「祭司」しかできないことです。聖所で神にささげられたいけにえは、「聖なる供え物」ですから、それを食べることができるのは祭司だけでした。ですから、聖なるささげ物が、再び、外庭に持ちだされることはなかったのです。

 また、全焼のいけにえは、焼き尽くして煙にするもので、だれもそれを食べることはできません。これは、レビ記のささげ物規定の最初に記されていることからもわかるように、祭祀儀礼――神殿礼拝の基本でした。これは、神との正しい契約関係にあるイスラエルの民が、聖所の務めのため、毎日規則的に、朝と夕、ささげるように命じられた標準的な唯一のいけにえである。(同上)と書かれています。
 
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 彼は私を外庭に連れ出し、庭の四隅を通らせた。すると庭の隅には、それぞれまた、ほかの庭があった。(21節)

 民がささげ物を神の御前に持って来るのは、神との和解が目的です。ですから、多くのささげ物は、「和解のいけにえ」でした。これは、神と和解した者が、神に対する感謝と恩義、また、神との交わりを表わすためにささげたものである。(同上)とあり、このいけにえだけが、後で民が食べることができました。

 庭の四隅に仕切られた庭があり、それは長さ四十キュビト、幅三十キュビトであって、四つともみな同じ寸法であった。(22節)
 その四つとも、回りは石の壁で囲まれ、石の壁の下のほうには料理場が作られていた。(23節)
 彼は私に言った。「これは、宮で奉仕をしている者が、民からのいけにえを煮る料理場である。」(24節)

 和解のためのいけにえは、外の庭で、祭司でないレビ人が民のために料理したのです。
 神は、エゼキエルに、このようないけにえのささげ方、祭祀の基本を、ここでも確認させられているのです。





posted by さとうまさこ at 10:42| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする