2017年05月18日

エゼキエル書161 いのちの水が地を満たす日(エゼキエル書47章12章、イザヤ書11章6節~9節)



 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。(エゼキエル書47章12節)

 千年王国は、「神殿が本来の姿に戻される時代である」と知ることができます。
 神殿は、たんに祭司のために仕事場ではありません。祭祀儀礼は、民の慰みに行われているのでもないはずです。

 たしかに、この世にあるものは、もともとの制作意図や理念の多くは、実際の運営やその必要のためにゆがめられていきます。組織は、よくよく注意していても、その組織のために奉仕するように力がはたらきます。りっぱな寺院もカセドラルも教会堂も、ひとたび出来上がると、維持管理の人員と費用がかかるわけです。それは、たしかに雇用を生み出すかもしれず、お金の流れを作って社会を豊かにするかもしれず、人々を駆り立てて知識を得させ、研究させ、発明させ、社会の進歩を促すかもしれません。しかし、多くの人の集まるところ、賞賛の的になりお金の集まるところには、すぐに、サタンが入り込むのです。サタンは、神と人を離すのが喜びですから、いつも、すきを見ては、いろんな誘惑を人の心に植え付けようとするのです。

 ソロモンの建てたりっぱな神殿が、偶像のあふれる怪しげなお堂になってしまった理由は、もちろん、神の御命令を守らないイスラエルの民――というより祭司と王に責任があると思います。しかし、神聖政治国家を上げての厳格な祭祀儀礼や律法が備えられていてさえ、神殿を廃れさせ、神の怒りを招いて、亡国の結果を招いたのです。

 アッシリヤによって北王国が、バビロンによって南ユダ王国が壊滅させられ、神殿も破壊された時、一番喜んだのは、悪魔だったことでしょう。
 イスラエルの民は、国を失い、神殿礼拝を失って初めて神との関係に思いをはせたのではないでしょうか。神様も、神の民を罰せなければならなかったことを、悲しまれたと思います。そこで、イスラエル王国中期から末期、その後に至るまで、多くの預言者を起こされ、警告と励ましと希望を与えておられます。

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  狼は子羊とともに宿り、
  ひょうは子やぎとともに伏し、
  子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
  小さい子どもがこれを追っていく。
  雌牛と熊とは共に草をはみ、
  その子らは共に伏し、
  獅子も牛のようにわらを食う。
  乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
  乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
  わたしの聖なる山のどこにおいても、
  これらは害を加えず、そこなわない。
  主を知ることが、
  海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ書11章6節~9節)

 これは、千年王国における美しい情景です。イザヤが見たまぼろしの中でも、私の好きな箇所です。神殿から流れ出た「いのちの水」が、究極的には、どのように地上を現出させるかが描かれていると思います。

 神殿から流れ出た水はアラバの谷の周辺をうるおすだけではないようです。やがては、海をおおう水のように地を満たすのです。その豊かないのち(愛)の世界では、もはや、肉食獣や毒蛇でも害をなさないのです。もはや、肉を食べる動物はいなくなるとは、どんな世界でしょう。肉食がなくなれば、食物連鎖のピラミッドがなくなり、殺される心配がなくなれば、草食動物は肉食獣となかよく並んで、身を横たえることができるでしょう。

 神殿から流れ出る水が十分に栄養が豊かで、肉食の代わりになる――それこそが、いのちの水――神の聖所からの水だと、エゼキエル書は語っているように思います。感謝!!







posted by さとうまさこ at 10:49| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする