2017年07月01日

ダニエル書33 ダニエル・壮大な歴史の預言に驚きすくむ。(ダニエル書8章8節〜27節)



 この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。(ダニエル書8章8節)
 そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非常に大きくなっていった。(9節)

 雄やぎに例えられているギリシャは、アレキサンダー大王のもとで、破竹の勢いで遠征を行なうのです。しかし、その最盛期に、わずか33歳にして、アレキサンダーは遠征先で死亡します。
 その後を、4人の将軍が分割して取り合うのです。そのうちの一本の角は、歴史を振りかえれば、ローマ帝国を表わしているのでしょう。

 しかし、その先は、きわめて象徴的な記述になっています。

 それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、(10節)
 軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。(11節)
 軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。(12節)
 私は、ひとりの聖なる者が語っているのを聞いた。すると、もうひとりの聖なる者が、その語っている者に言った。「常供のささげ物や、あの荒らす者のするそむきの罪、および、 聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことだろう。」(13節)
 すると彼は答えて言った。「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す。」(14節)

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 私、ダニエルは、この幻を見ていて、その意味を悟りたいと願っていた。ちょうどそのとき、人間のように見える者が私の前に立った。(15節)
 私は、ウライ川の中ほどから、「ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。」と呼びかけて言っている人の声を聞いた。(16節)
 彼は私の立っている所に来た。彼が来たとき、私は恐れて、ひれ伏した。すると彼は私に言った。「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである。」(17節)
 彼が私に語りかけたとき、私は意識を失って、地に倒れた。しかし、彼は私に手をかけて、その場に立ち上がらせ、(18節)
 そして言った。「見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わりの定めの時にかかわるからだ。(19節)
 あなたが見た雄羊の持つあの二本の角は、メディヤとぺルシヤの王である。(20節)
 毛深い雄やぎはギリシヤの王であって、その目と目の間にある大きな角は、その第一の王である。(21節)
 その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それは、その国から四つの国が起こることである。しかし、第一の王のような勢力はない (22節)

 天使ガブリエルは、4本の角以降については、次のように解き明かしています。

 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。(23節)
彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。(24節)

 これが、ローマ帝国のキリスト教徒迫害を意味するのか、あるいは終末期のサタンの軍勢と聖徒の戦いを意味するのか、あるいは両方がオーバーラップされた「夢」なのか、黙示文学と言われる技法の難しさを感じます。

 彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。(25節)
 先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。」(26節)
 私、ダニエルは、幾日かの間、病気になったままでいた。その後、起きて王の事務をとった。しかし、私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである。(27節)

 ダニエルをも悩ませたこの解き明かしに、平凡な一聖書読者のさとうもまた、「驚き、すくんで」います。








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2017年07月03日

お詫び






      申しわけありません。少々、体調を崩しています。

      きょうもお休みさせてください。

      これからも、よろしくお願い申し上げます。

                         さとうまさこ






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2017年07月04日

ダニエル書34 ダニエルの悔い改めの祈り(ダニエル書9章1節〜13節)



 捕囚期の書物は、時系列では、列王記、歴代誌に続く歴史です。けれども、その地理的な広がりはユダヤ、サマリヤ、エルサレムが中心だったころとは比べ物になりません。また、登場人物は異国人にもおよび、その異国人や異教徒が、捕囚以前の異教徒とは異なる立場や役割を持って登場して来ます。
 アブラハムの子孫であるイスラエル人たちが、神の約束の地を離れて、神殿を失って、あるいは奪われて、アブラハム、イサク、ヤコブの神の信仰と対峙するわけです。ここでは、明らかに信仰が質的に大きな変化を遂げたと考えられます。また、神に対する信仰者の態度に新しい境地が開かれたのを見ることができます。

 エレミヤ、エゼキエル、ダニエルの預言が語る内容は、預言書とはいえ、歴史と連動しています。その歴史的広がり、地理的広がりを見ないと、預言者の切実で痛切な預言の必然性が読み切れません。彼等は、ユダヤのエリートであって国の崩壊を大きな痛みで受け止める者たちでした。けれども、同時に、一般のユダヤ人の霊的な困難を代弁する立場でした。
 けれども、神殿を失ったことで、だれよりも「痛んで」おられたのは、アブラハム、イサク、ヤコブの神です。アブラハム以来、ずっとイスラエルの民とともにあった主は、ご自分の民の困難をどのような思いで見ておられたことでしょう。

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 メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、(ダニエル書9章1節)
 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。(2節)

 バビロンにいるダニエルのところへ、エレミヤの預言が届いていたことが聖書に記されています。これは、人為的なできごとです。だれかがエレミヤの預言を届けたに違いないからです。しかし、これは同時に、神の御采配だったに違いありません。
 この預言に、ダニエルは、大いに勇気づけられたのです。

 そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。(3節)

 以下はダニエルの悔い改めの祈りです。

 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。(4節)
 私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。(5節)
 私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。(6節)
 主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。(7節)

 ダニエルは、まず、自分たちがこうむっている捕囚の境涯について、それが、自分たちの罪から出たことであると告白しています。「彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。」と認めるのです。
 同様の告白は続きます。

 主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。(8節)
 あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。(9節)
 私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、神がそのしもべである預言者たちによって私たちに下さった律法に従って歩みませんでした。(10節)
 イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。(11節)

 それにしても、その結論は、古い過去にも遡ります。モーセの時代です。

 神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。エルサレムの上に下ったほどのわざわいは、今まで天下になかったことです。(12節)
 このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは、不義から立ち返り、あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした。(13節)







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2017年07月05日

ダニエル書35 ダニエルの悔い改めの祈り(ダニエル書9章14節〜19節)



 主はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました。私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。(ダニエル書9章14節)

 国の崩壊と神殿の破壊、民の分割と捕囚の憂き目は、イスラエルの民の「主に対する反逆」の結果でした。ヒゼキヤの子マナセの悪業が決定的でしたが、イスラエルの民が主に叛く所業の歴史は、古く、長いのです。
およそ、エジプトから救い出していただいた直後から、民は、自分たちを救い出して下さったアブラハム、イサク、ヤコブの神の愛を忘れ、主を疑い、叛きました。
 聖書の歴史は広く見れば、神の民イスラエル以外の全人類の「神への反逆」が問題になっているのですが、神の怒りはとりわけ「選びの民」であった人たちに厳しいのです。また、旧約聖書は、ここに焦点が当てられていると思います。
 そのことを、ダニエルは、深く深く悔改めているのです。

 しかし今、私たちの神、主よ、あなたは、力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、今日あるとおり、あなたの名をあげられました。私たちは罪を犯し、悪を行ないました。
 主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。(15節)

 信仰者は、その信仰の故に、不幸に見舞われると、不信心者より人からそしられるのは、世の常ではないでしょうか。「彼の神は、いったい何をしているのだ」と、不幸に苦しむ人を笑うのです。信仰者にとって、自分が今災難の渦中にあることより、信仰している神様が侮られる方がよほど辛いのです。ですから、ダニエルは次のように祈ります。

 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。(17節)

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 ダニエルが祈り願うのは、エルサレム神殿だけではありません。エルサレムの町とそこに住む民の回復をも願っています。

 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。(18節)

 主の御腕が回復のために伸ばされるのは、ただ主のあわれみによると、ダニエルは訴えています。すべての「良いこと」は、私たちの行いで「買う」ことはできないという聖書の神(キリスト)信仰の原則を、ダニエルは告白しています。

 主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」(19節)







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2017年07月06日

ダニエル書36 天使ガブリエル(ダニエル書9章20節〜23節、創世記28章10節〜12節)



 私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、(ダニエル書9章20節)
 すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、(21節)
 私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。(22節)

 ガブリエルミカエルとともに、聖書に名前が出ているふたりの御使い(天使)のうちの一人です。ふつう新約聖書から読み始めるクリスチャンにとっては、とてもなじみ深い名前です。マリヤに懐妊を告げ、マリヤの従姉妹エリザベツに懐妊を告げたのも、ガブリエルだと推測できます。
 ダニエル書に彼の名が現れるのは、8章16節に続いて、二度目です。「終わりの日」について知らせるためでした。救い主の生まれる日と、終わりの日の預言を託されているとても大きな働きをしている天使ということになります。

 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。(23節)

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 天使(御使い)は、神様の人間への使いです。この役割から、人にとって神さまやキリストより親近感があり、クリスチャンの少ない日本でも、ごく誰にでも通じる一般名詞として慣用句として使われています。
 最近ではあまり言いませんが、「白衣の天使」(看護師)、「天使のような人」(無垢でやさしい人)、「天使が通る」、「天使が舞い降りる」などです。
 神様の「お使い」なのだから、もっぱら神様の御心を伝える存在ですが、人間としては神様の代理のような神々しい存在として見えるのでしょう。また、愛や聖をその身にまとった無垢で献身的な人の形容になっています。

 しかし、これは多分に人間の都合でゆがめられたイメージです。
 マリヤに現れたガブリエル、ダニエルに現れたガブリエルは、ともに「人の思いも及ばない神のわざ」を伝えに来ています。けっして、人間の耳にやさしく、喜ばしいお告げではありません。それでも、このような神の国の歴史において、決定的な預言のために神が御使いを使わされることに、人は深い印象を受けるのです。

 神様は、人に語りかけられる方です。聖書には、アダムとエバ以来、直接神のお声を聞いた者の数は数えきれないほどでしょう。でも、たんに声ではなく、(人間の)姿を取った御使いもまた、たくさん登場しています。アブラハムの孫ヤコブがベテルで野宿したときに現れた天使たちの姿は、中でも最も印象的で美しいものです。

 (兄を怒らせた)ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。
 ある所についたとき、ちょうどそこで日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所に石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ。神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。(創世記28章10節〜12節)

 さて、ダニエルに現れたガブリエルは、どんな重大なメッセージを届けに来たのでしょう。







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