2017年08月01日

ホセア書6 姦淫を止める夫の愛・それゆえ、わたしは、いばらで彼女の道に垣を立て、(ホセア書2章6節7節)



 ホセアが姦淫の女ゴメルをめとるよう主から命じられるのは、主のしもべとして大変な挑戦を突き付けられたとも言えます。
 およそ、神の「召命」を受けることは、「楽なことではない」のは、聖書を通して語られています。モーセ、サムエル、エリヤ、イザヤ、エレミヤなど、その苦難が良く知られている預言者たちだけではありません。サウル、ダビデ、ヤロブアムのように、王に選ばれた者も、新約の時代のイエスの弟子たちも、パウロも、召されることで多くの苦難に遭うのです。ある者は「妻をめとるな」と命じられています。(エレミヤ書16章2節) 多くの妻を得たダビデも、女性問題はある意味「女難」を抱え込むことでした。
 しかし、結婚の最初から、「姦淫の女をめとれ」という命令は、神のしもべに少々「酷」ではないでしょうか。
 
★★★★★

 ホセアに与えられた預言は、「姦淫の女」を妻とした夫の苦しみの心情です。
 ホセア書の預言は、ホセア自身の体験から出た感情だとも言えます。
 けれども、事実は、これは「神の心情」に置き換わっています。
 
  それゆえ、わたしは、
  いばらで彼女の道に垣を立て、
  彼女が通い路を見いださないように、
  石垣を立てよう。(ホセア書2章6節)

 妻が愛人に会いに行くのを知っている夫は、きっとこのような思いになることでしょう。どうすれば、彼女が、男のもとへ行かないだろうかと苦悩し、その道を塞ぎたいと思うでしょう。まあ、今の時代なら、葛藤しているのはムダ、さっさと離婚して、別の相手とやり直せばよいと考えるかもしれません。
 しかし、いっさいの煩悶のない関係に、はたして「愛」があるのか、考えさせられるところです。割り切れないところに「愛」があるのではないでしょうか。あるいは、姦淫する女も、夫を嫌いだから他の男に走っているのではないかもしれません。何か、彼女自身にもわからない情動が、彼女を突き動かす・・・。

 ですから、少々の障がいがあっても、姦淫の女は、夫が立てた石垣を乗り越えて男を追います。
 
  彼女は恋人たちのあとを追って行こう。
  しかし、彼らに追いつくことはない。
  彼らを捜し求めよう。
  しかし、見つけ出すことはない。
  彼女は言う。
 
 夫が妻を止めるために労苦したことは意味があったのです。彼女を姦淫の相手から、一時的に引き離すことになったからです。
 相手と接することができない時、彼女は思うのです。

 『私は行って、はじめの夫に戻ろう。
  あの時は、今よりも私はしあわせだったから。』(7節)

 こんなプロセスで妻を取り戻す夫は、しかし、幸せでしょうか。偶像礼拝と言う姦淫を犯しているイスラエルの民のしていることに、主は同様な痛みを覚えておられるのです。それをホセアは、伝えています。






posted by さとうまさこ at 11:37| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

ホセア書7 夫の与えたもので、楽しむ姦淫の女(ホセア書2章8節〜13節)



  彼女に穀物と新しいぶどう酒と油を与えた者、
  また、バアルのために使った銀と金とを
  多く与えた者がわたしであるのを、
  彼女は知らなかった。(ホセア書2章8節)

 このことばも、真実ですね。私たちは、自分のお金は、「自分が稼いだもの」と思いがちです。それが、夫の給料であろうと親の遺産であろうと、いったん自分の手に入ったら、自分の物だと思うのです。天災があって、農作物が実らなかったら「神の罰」と思うかもしれませんが、当たり前に作物が実って倉がいっぱいの時は、自分の労働の成果と考えるのです。聖書の神様を知っている者は、神様がすべてを下さっていると知識ではわかっています。それでも、それを使うのに、いちいち、神様に相談してはいられないし、また、神様もそのようなことを望んでおられないと思います。神は、私たちが、すべてを「いただいている」と、謙遜になることをお喜びになり、それゆえ、今でも、「その一部」を神様にお返しするのでしょう。

 けれども、この神から離れて長く経つ者、また、自分たちにすべてを下さっているのがどの神なのかを教えられなかった人は、多いのです。偶像の神に供え物をするとき、それがそもそも、「まことの神」からの戴きものであるのを気が付きもしない、と主は仰せです。
 恋人と会うために美しい着物を着るのも、彼に貢ぐお金さえ、夫が彼女に与えたにものではないか、と主は仰せなのです。

 そのような恩知らず――無知――を主が見過ごされることはないのです。
 
  それゆえ、わたしは、その時になって、
  わたしの穀物を、
  その季節になって、
  わたしの新しいぶどう酒を取り戻し、
  また、彼女の裸をおおうために
  わたしの羊毛と麻をはぎ取ろう。(9節)
  今、わたしは彼女の恥を、
  恋人たちの前にあばく。
  だれも彼女を
  わたしの手から救い出せるものはない。(10節)
  わたしは彼女のすべての喜び、
  祭り、新月の祭り、安息日、
  すべての例祭を、やめさせる。(11節)

★★★★★

  それから、わたしは彼女が
  『これは私の恋人たちが払ってくれた報酬』
   と言っていた彼女のぶどうの木と、
  いちじくの木とを荒れすたらせ、
  これを林にして、これを野の獣に食べさせる。(12節)

 姦淫のワナは、姦淫からでさえ「甘美な報酬」が得られることでしょう。偶像の神に祈って、欲しいものを願って、何かを得るように見えることだってあるわけです。『私の恋人たちが払ってくれた報酬』というわけです。しかし、それは、主がそのおつもりなら、すぐにも、取り去り、荒れすたらせることができるのです。

  わたしは、彼女がバアルに香をたき、
  耳輪や飾りを身につけて、
  恋人たちを慕って行き、
  わたしを忘れてバアルに仕えた日々に報いる。
  ――主の御告げ――(13節)

 どんなに着飾っても、恋人との甘い時間を過ごしてもやがて、そのような日々に終わりが来ます。本当の夫が、忍耐の限界に、かならず、彼女を罰する日が来るからです。









posted by さとうまさこ at 10:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月03日

ホセア書8 その日、わたしは答える。――主の御告げ――(ホセア書2章13節〜23節)



  わたしは、彼女がバアルに香をたき、
  耳輪や飾りを身につけて、
  恋人たちを慕って行き、
  わたしを忘れてバアルに仕えた日々に報いる。
  ――主の御告げ――(ホセア書2章13節)
  それゆえ、見よ。わたしは彼女をくどいて、
  荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。(14節)
  わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、
  アコルの谷を望みの門としよう。
  彼女が若かった日のように、
  彼女がエジプトの国から
  上ってきたときのように、
  彼女はその所で答えよう。(15節)

 姦淫の女に対して、主は「バアルに仕えた日に報いる」と言われるのです。私たちの感覚では、この詩文の流れから「報い」はかなり厳しいものだと考えるのです。姦淫をした奥さんに対して怒っている夫なら、「殴る、蹴る」の懲らしめを与えるのではないか。でなければ「離婚」のように、見限るでしょう。

 ところが、主は、自分を裏切った女を荒野に連れて行くのですが、そこで飢えを体験させようというのではなさそうです。それどころか、荒野を「ぶどう畑にする」。アコルの谷を望みの門とすると言われるのです。
 アコルの谷は、ご存知のようにヨシュア記に出てきます。荒野の40年のあと、指導者ヨシュアのもと、ヨルダン川を渡ってカナンに攻め入った時のエピソードのひとつです。
 エリコを落としたイスラエルは、その勢いで次の町アイを攻めましたがさんざんな敗北を喫しました。調べるとユダ部族のゼラフの子アカンが戦利品(聖絶の物)を盗んだからでした。
 アカンは、彼の家族や家畜、家財道具のすべてとともにアコルの谷で石打に処せられ、殺されたのです。(ヨシュア記7章6節〜26節)

 神の怒りの象徴であった「アコルの谷」は、イスラエル人にとっては震え上がるようなエピソードを思い起こさせたでしょう。しかし、このとき、姦淫の女に対して、主は、その場所を「望みの門」にして下さるのです。
 イスラエルが荒野に上って来たとき、主が数々の奇蹟と忍耐強い愛とをもって、導いて下さったように、やさしく導いてくださるのです。

★★★★★

  その日、――主の御告げ――
  あなたはわたしを『私の夫』と呼び、
  もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。(16節)
  わたしはバアルたちの名を
  彼女の口から取り除く。
  その名はもう覚えられることはない。

 裏切ったにもかかわらず、愛で答えられた姦淫の女は、目が覚めるに違いありません。
 だれが、ほんとうの「夫」か、気づくのです。二度と愛人の名を呼ばないようになるのです。

  その日、わたしは彼らのために、
  野の獣、空の鳥、地をはう者と契約を結び、
  弓と剣と戦いを地から絶やし、
  彼らを安らかに休ませる。(18節)
  わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。
  正義と公儀と、恵みとあわれみをもって、
  契りを結ぶ。(19節)
  わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。
  このとき、あなたは主を知ろう。(20節)

 夫のもとに立ち帰った妻に対して、夫は契りを結び直してくださるのです。

  その日、わたしは答える。――主の御告げ――
  わたしは天に答え、天は地に答える。(21節)
  地は穀物と新しいぶどう酒と油とに答え、
  それらはイズレエルに答える。(22節)

 主との新しい契りは、天と地、その産物やその土地にまで及びます。
 また、もとより、主が最も慈しんでいる「彼=人間」に及びます。

  わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、
  『愛されない者』を愛し、
  『わたしの民でない者』を、
  『あなたはわたしの民』と言う。
  彼は『あなたは私の神』と言おう。(23節)

 ここでの『わたしの民でない者』は異教徒の事でしょうか。やがて地上では、イスラエルの神を信じていなかった異教徒も、主を『私の神』という日が来るという預言です。まさに、新約時代の到来の預言であるようです。








posted by さとうまさこ at 11:00| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月04日

ホセア書9 再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。(ホセア書3章1節〜5節)



 主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうどほかの神々に向い、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」(ホセア書3章1節)
 そこで、私は銀十五シュケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。(2節)

 これは、ホセアが主から、「妻を呼び戻せ」と命じられているのです。ゴメルは、ホセアを離れてほかの男のもとに走っていたのでしょう。「姦淫する女の夫」という立場は、ただでさえ不名誉なものです。あたりまえなら、夫は妻を捕えて石打にさえできるはずです。ところが、主は彼女を呼び戻して復縁しなさいと仰せなのです.復縁と言っても、それはゴメルの新しい夫あるいは、ゴメルの親に、再び花嫁料を払う必要があることなのです。
 まったく、ホセアの立場はひどいものですが、彼は主のご命令に従います。「銀と大麦」で彼女を買い取るのです。
 もちろん、彼は、復縁にあたって、ゴメルに次のように言い聞かせます。

 私は彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」(3節)

★★★★★

 それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エボデも、テラフィムもなく過ごすからだ。(4節)
 
 ホセアがゴメルを買い戻すのは、たんなる人間的な未練(恋情や執着や分別)ではありません。それが、自分たちの神を裏切り続けているイスラエル人に対する神の愛の形であることを、イスラエル人に示すためでした。つまり、これこそが預言だったのです。

 その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを捜し求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。(5節)

 神の「あきらめない愛」のもとで、イスラエル人たちは、やがて、彼らの神・主、主が選んだ王ダビデを捜し求めるようになるというのが、預言の真意です。
 「終わりの日に、主のめぐみに来よう」は、しばしば解釈されているように、ユダヤ人たちがクリスチャンとなって、終わりの日にキリストの前に立つことを意味しているようです。感謝!







posted by さとうまさこ at 10:52| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

ホセア書10 イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。(ホセア書4章1節〜6節)



 ホセアは、姦淫してほかの男のもとに走り、彼から離れてしまった妻を買い戻しました。それが、神の御命令だったからです。そもそも、ホセアがめとった女ゴメルは、最初から「姦淫の女」と呼ばれているのです。彼女は、娘であった時代から身持ちの悪い女だったに違いありません。ふつうなら、結婚相手として敬遠されるような女をめとったのも神の御命令でした。(ホセア書1章2節3節)

 ホセアの忍耐強い愛は、多くの人を驚かせたに違いありません。「どうして夫を裏切ったような女を買い戻すのだ!」と、笑ったり、怒ったりする人がいたでしょう。
 その疑問への答えが、ホセアの預言だったのです。

  イスラエル人よ。
  主のことばを聞け。
  主はこの地に住む者と言い争われる。
  この地には真実がなく、誠実がなく、
  神を知ることもないからだ。(ホセア書4章1節)

 ホセアは、彼を非難するイスラエルたちに答えます。ゴメルと同じようなことをしているイスラエル人、神からいただいたイスラエルのちに住む者と、今こそ主が言い争われると言うのです。イスラエル人自身が、自分たちの夫、神に対して姦淫を犯しているではないかというわけです。

  ただ、のろいと、欺きと、人殺しと。
  盗みと、姦通がはびこり、
  流血に流血が続いている。(2節)
  それゆえ、この地は喪に服し、
  ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに、
  打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。(3節)

 その結果、イスラエルの地は荒れ果て、無残な流血がはびこり、獣や鳥、魚、つまり「自然」でさえも、絶えて消えそうな世界になっているのです。

★★★★★

  だれも咎めてはならない。
  だれも責めてはならない。(4節a)


 人は、他者の行為は簡単に批判し、なじることができます.姦淫をした妻女を許すばかりか、買い戻した夫ホセアをあざ笑います。
 しかし、神はそのような人間の上っ面の正義感を、とがめておられます。人が、人を責めることなどできるだろうか、と言うわけです。神に対する姦淫を放置しておいて、なぜ、ゴメルやホセアを責めるのか。

  しかし祭司よ。わたしはあなたをなじる。(4節b)
  あなたは昼つまずき、
  預言者もまた、あなたとともに夜つまずく。
  わたしはあなたの母を滅ぼす。(5節)
  わたしの民は知識がないので滅ぼされる。
  あなたが知識を退けたので、
  わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。
  あなたは神の教えを忘れたので、
  わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。(6節)

 一番大きな罪、神に対する姦淫については、祭司が一番咎められるべきです。つぎに預言者です。なぜなら彼らは直接神ご自身と「話す」機会がある選ばれた主のしもべなのです。民は、民で、すでに律法を「知っているはず」なのだから、やはり神の怒りの対象なのです。
 つまり、神は、イスラエルそのものの姦淫の罪を咎めておられ、そのようなイスラエルを忘れよう、と仰せなのです。







posted by さとうまさこ at 10:44| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする