2017年08月12日

ホセア書17 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。(ホセア書6章4節〜6節、)



  エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。
  ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。
  あなたがたの誠実は朝もやのようだ。
  朝早く消え去る露のようだ。(ホセア書6章4節)
  それゆえ、わたしは預言者たちによって、
  彼らを切り倒し、
  わたしの口のことばで彼らを殺す。
  わたしのさばきは光のように現れる。(5節)

 ホセアのとりなしを受けて、主は、エフライムとユダへの怒りを和らがせられたでしょうか。たしかに、「わたしは彼らの上に 激しい怒りを水のように注ぐ」(5章10節)と宣告された時より、トーンがおちているように見えます。が、つかの間に後、主は、やはり、主のさばきを明言しておられます。
 聖書の神は、あわれみをお持ちですが、しかし、悪いこと――不正や不義に妥協して見逃すことはされないのです。

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 主のみ怒りに対して、私たちはどうすればよいのでしょうか。人は、つい今しがた決心してことでも、みずから曲げてしまう弱い存在です。エフライムやユダの民が、国の現状に妥協して、より楽な偶像礼拝に走り、信仰より目先の利益や喜びを追い求めるとき、彼らはバアルに走りました。イスラエルの神と並べて祀ることもありました。
 そのとき、信仰の証しとして、より多くのささげ物や全焼のいけにえが供えられたのでしょう。

  わたしは誠実を喜ぶが、
  いけにえは喜ばない。
  全焼のいけにえより、
  むしろ神を知ることを喜ぶ。(6節)

 これは、今日もそうですが、神への「誠実」は、人の目からはなかなか真贋が判定できません。ある人が、たしかに「信仰を持っているか」かは、神以外にはわかりません。
 信仰者同士でも、信者本人でも、あるいは教会の中でも、大きなささげ物で、「誠実」や「神への真実」に代えたくなります。これは、旧約聖書の時代から神が警告しておられることだったんですね。(Tサムエル記15章22節)

 神は、水一滴、パンのひとかけもご自分のために必要としておられない方であることを、改めて思わせられるところです。神が人に求めておられるのは、エデンの園の最初から、「神に聞き従う」素直な態度でしたから。








posted by さとうまさこ at 11:48| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする