2012年02月08日

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記163 二人妻(第一サムエル記1章1節〜6節)



 エフライムの山地ラマハイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。(Tサムエル記1章1節)
 エルカナには二人の妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もう一人の妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。(2節)
 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いきえにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。(3節)
 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちにそれぞれ受ける分を与えた。(4節)
 しかし、ハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。(5節)
 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。(6節)


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 神様がお造りになった世界、被造物の秩序を、私たちはたいてい不思議とも思わずに受け入れています。
 ほとんど、問いかけることもない秩序のひとつに、神様が人間を「男と女とに彼らを創造された」(創世記1章27節)ことがあります。男と女は一対で安定するように造られているのです。一夫多妻や多夫一妻、不倫や売春で多数の異性と性的関係を持つのは機能的には可能かもかもしれませんが、そのような関係はしょせん不安定なものです。

 下等生物や動物を例に挙げ、その性行動を人間にも当てはめようとするのを見ますが、たとえ、ヒヒが強いオスを中心とするハレム社会を築いていても、ライオンのオスが何匹ものメスを従えていても、ハチが環境と必要によって性転換をするとしても、そのような生物的事実は、人間のあるべき男女のモデルを説明できません。
 なぜなら、彼らには、人間のような「精神、心、たましい」がないからです。人間以外の生物の性は「繁殖」が目的です。繁殖だけが目的にしても、雌雄が一対であるのは不思議なことですが、繁殖が優先なので、ハレムも、強いオスによる雌の囲い込みも、性転換も、その手段として許されているのです。
 しかし、人間は繁殖すれば良いのではありません。人間は、この地上で、繁殖だけが至上命令で創造されたのではありません。

 人間は、神の愛の対象として造られたのです。「さあ人を造ろう。われわれの形として、我々に似せて」(26章)と言われている通りです。
 神様が意図されていたのは、ご自分の愛の対象として親しく対話するような相手としての人間でした。それゆえ、人間には、心、精神、たましいが与えられました。動物のように、食べて、繁殖し、その日、その日を生きるのではなく、永遠の中で、愛を思い、見えない中から価値を創造する神に似せて造られたのです。ですから、人間だけは、他の動物とは違って永遠なる神と対話し、その愛を受けたいという激しい渇望をもって存在しているのです。神との特別な関係のために与えられた特別な「こころ」は、人間が見るすべてに作用しています。そのような人間――アダムのために神は、「人がひとりでいるのは良くない」(2章18節)と、エバをお与えになりました。一人でいるのは良くないから、「たくさん与えよう」とされたのではありません。ひとりの男に対し、ひとりの女なのです。そうして、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と仰せになったのです。もし、人間がたくさんの人との交わりを持ちたいなら、仲間を増やすのです。
 仲間がどんなに増えても、夫婦は一対なのです。神がそのようにお造りになったからです。じっさいに、どのような刺激的なポルノも、奇抜な性倒錯者も、神のお造りになった「性」の秩序を超えることはできないのです。

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 アブラハムの妻サラが自分の奴隷女ハガルを夫に与えたために、意地悪い嫉妬に狂った女になったのを思い出してください。サラは自分にイサクが生まれると、ハガルの子イシュマエルが目障りになり、夫に詰め寄って、母子を追い出してしまうのです。自分が夫にハガルを勧めたことも、イシュマエルが少なくとも、子どものなかったアブラハムの家で十数年は希望の子どもだったことも、忘れてしまいます。
 また、ヤコブのふたりの妻レアとラケルが、ヤコブの愛を競って命がけの競争をするさまは、人間性の醜さの極地が現れています。なぜ、このようなことになるのでしょう。もし、繁殖すれば良いのであれば、夫にたくさんの妻がいても、妻たちは仲良くできるはずです。たとえ、第二夫人の子どもであっても彼らを喜べるはずです。
 残念ながら、人間は繁殖だけが使命ではないのです。神が願われたのは、ご自分と交わるように、人間同士が、とりわけ男女が深く愛し合い交わるように、あえてひとりの人とひとりの人が一対になるようにお造りになったのです。
 だからこそ、その神の秩序が壊された時、人は痛みを覚え、苦しむのです。

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 ハンナには子供がありませんでした。しかし、もう一人の妻ペニンナにはたくさんの子どもがいたのです。二人妻状態自体が、女性に多大な葛藤を与えます。それは彼女の心が狭いからではなく、彼女が神様から造られた心をもっているからです。まっとうな人間は、合わないサイズの服を着せられたら不自然で苦しむのです。
 繁殖だけが目的ではない人間の性は、子どもさえ自分の所属物にしてしまいます。二人妻で片方だけ子どもがいる場合、その子供は、共通の夫の子どもとして喜ぶのではないのです。
 ハンナに、ペニンナの子どもを愛せと言うのも、ペニンナに、子どもたちを「ハンナの子どもでもある」と思うように仕向けることもできません。事あるごとに、子どもを抱き寄せて見せつけるライバルの妻ペニンナにハンナは、いらだつのです。彼女が人間として成熟していないからではありません。二人妻のひとりであることが、すでに、苦しみの始まりなのです。








posted by さとうまさこ at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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