2014年12月11日

Coffee Break 知恵文学・ ヨブ記2 プロローグ2 ヨブ記の神



 ヨブが、族長時代(アブラハム、イサク、ヤコブの時代)の人であるなら、ヨブ記のなかで「働いておられる」神は、どのような神かと問われなければならないでしょう。
 聖書は、その始まりから、天地万物を創造された唯一の神を主人公としています。聖書で神と言えば、天地の生まれる永遠の昔から、永遠の未来まで存在され、すべてを創造し、すべてを統べ治め、支配し、宇宙の法則や摂理の主権を握っておられる神。この地上のすべてにいのちを下さり、愛の対象として人を造り、人がその自由意志で罪を犯して神から離れて後は、その救いのために救いのご計画を着々と実行し、神ご自身(神のみ子と言われます)が、肉を取って世に来てくださり十字架に架って、罪を贖って下さり、甦って私たちに永遠のいのちを与えて下さった、そういうお方です。

 ヨブがそのような神の深い愛や遠大なご計画を「知っていた」かどうかはとにかく、ここで登場してこられる神がどのような神であるかは、少なくとも聖書読者は考えてみる価値があると思います。

 聖書には、異教の民も登場し、イスラエルをエジプトから救い出された「私はある」と自己紹介された神、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」はモーセに十戒を与えた時、異教の意味を「偶像を刻んで拝む宗教」と規定しておられるのは明快です。
 
 創世記の中で、罪が満ち、「彼らを滅ぼす」と神の怒りの対象となっている民――たとえば、ソドムとゴモラ、カナンの七部族などは、たんに神の目からごらんになって禍々(まがまが)しいことを行なっていただけではないでしょう。その行い自体が偶像になるまで自己合理化され、もはや、別の神を拝んでいると認められたゆえ、滅ぼされたのではないでしょうか。
 ノアの洪水の前、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをごらんになった。(創世記6章5節)」のです。 

 神は、大きな犠牲を払って地上をリセットなさったのです。でも、そのノアの子孫たちからも、罪が生まれて来ました。
 「天に届く塔を立て、名を上げよう。」(創世記11章3節)というような罪です。

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 時代は下って、族長時代、神はアブラハムに声をお掛けになりました。ノアの洪水以後、神が計画しておられた新しい救いのためです。これはもちろん、神の一方的な働きかけですが、アブラハムは、少なくとも、神のご計画に召し出される「素質」のある人物だったと思われます。素直に神を恐れているゆえに、神の御声が聞けたのです。召命以降のアブラハムと神との濃密な関係を思い起こすと、彼の「素質」がわかります。

 けれども、同じ時代、アブラハムのように、超絶した存在者(唯一の神)を恐れ、敬う人は他にもいたと考えられます。その一人が、ヨブだったのではないでしょうか。

 族長時代の神礼拝は、アダムとエバたちの息子、カインとアベルが、ともに収穫物の中からささげ物をささげたという形に代表されていると思われます。(創世記4章2節〜4節)
 ノアも箱舟を出て最初にしたのは、祭壇を築いていけにえをささげることでした。(創世記8章20節)
 同様に、アブラハム(アブラム)は神の導きでカナンに入り、そこで神が現れて下さった時、主のために祭壇を築いたのです。(創世記12章7節8節)その後、彼は何度も祭壇を築き、いけにえをささげています。

 ヨブは、息子たちが祝宴を開いた後、息子たちひとりひとりのために、全焼のいけにえをささげたとあります。(ヨブ記1章5節)
 これは、ヨブが「族長時代の敬虔な信仰の形」を生きていたことを意味しています。
 ヨブが「主の目にかなう」人であったのは明白です。そして、これこそが、ヨブ記のテーマに直結している事実なのです。

 彼は、「主の目にかなって」いました。それゆえ、主は彼を祝福しておられました。それゆえ、そのような人物であったがゆえに、ヨブに、前代未聞の試練がふりかかるのです。







posted by さとうまさこ at 10:13| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする