2015年09月02日

Coffee Break詩編・144 聖書の神とは、みいつと御座、とこしえからとこしへ。(詩編93編1節2節)



 主は、王であられ、みいつをまとっておられます。
 主はまとっておられます。
 力を身に帯びておられます。
 まことに、世界は堅く建てられ、
 揺らぐことはありません。(詩編93篇1節)

 みいつは、御稜威と書きます。「いつ」に御が付いた尊敬語。意味は、天皇、神などの威光、強い威勢。(広辞苑)

 共同訳聖書では「威厳」。口語訳聖書では「威光」と訳されている。

 主こそ王。
 威厳を衣とし、
 力を衣とし、。身に帯びられる
 世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。(新共同訳)

 主は王となり、
 威光の衣をまとわれます。
 主は衣をまとい、力をもって帯とされます。
 まことに、世界は堅く立って、
 動かされることはありません。(口語訳)

 聖書の神を「どのような方であると考えるのか」は、私たちの信仰の確信を決めると言っても過言ではないかもしれません。
 聖書の神は、威厳や威光、古代では御稜威と言われたような超絶した力を放つ「恐れ多い方」なのです。万物をお造りになり、私たちに命を与えて養い、罪に堕ちた後も気に掛け続けて救いの計画を着々と実行してこられ、やがて、御子イエスの十字架で私たちをふたたび御許に連れ帰って下さる神です。私たちの想像を超えている方であるゆえに、私たちはこの方を恐れるのです。

 このような神を想像することは、伝統的に、日本人には不慣れなのではないでしょうか。なにしろ、大日如来と言われる地位の高い仏様から、自分の子どもに仮託したお地蔵様や、キツネだとみなされるお稲荷様まで、日本には「水平的関係の親しみやすい神様」が大ぜいいるからです。
 しかし、聖書の神様は、すべての創造主、お地蔵様の石から、お稲荷様の祠、仏壇仏具の木材や金属まですべて、この方によって造られたものなのです。ご威光が特別なものであるのは当然です。

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 あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、
 あなたは、とこしえからおられます。(2節)

 御座は、新共同訳でも、御座が使われています。しかし、口語訳は「位」と訳しています。御座は、神のご臨在の場とそこにおいでになる神の特別な力を表現するための言葉で、旧約聖書では、至聖所がそれに当たると思います。

 あなたの位はいにしえより堅く立ち、
 あなたはとこしえよりいらせられます。(口語訳)

 さらに聖書の神にたいする私たちの認識で大切なのは、古(いにしえ)よりおられ、永遠(とこしえ)におられる方だということです。まさに、永遠から永遠まで存在され、永遠の時を、統べておられるのです。これは、火災や天災で壊れたり焼失したり、時代によって名前が変わったり、場所でまた、形が変わり、簡単に地域や個人の神となる「偶像」とはまったく異なる神様なのです。

 このことのゆえに、御稜威を讃え、賛美することができるのだと、改めて思うのです。






posted by さとうまさこ at 09:48| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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