2015年09月04日

Coffee Break詩編・146 主よ。復讐の神よ。光を放ってください。(詩編94編1節〜10節)



 一応、クリスチャンの私には、復讐ということばは、どこか「正視できない」「正視したくない」ひびきがあるのです。
 それは、自分が復讐など考えない「良い人」だからではなく、たぶん、復讐したい心を持っているからでしょう。

 この詩は、どうやら、復讐の念に燃えている心が歌わせた賛美です。

 復讐の神、主よ。
 復讐の神よ。光を放ってください。(詩編44篇1節)
 地をさばく方よ。立ち上がってください。
 高ぶる者に報復してください。(2節)

 「わかる。わかる」と共感する書き出しです。こんなものものしい言葉を使っていないけれど、自分も時々、つぶやいているのです。「まあ、神様がご存知だから。神様は見ておられるはずだから」「神さまが裁いて下さるわよ」
 自分のつぶやきを正当化するために、わざわざ聖書箇所を調べて復誦するのです。
「復讐は神のもの。神の怒りにまかせなさい。フムフム、申命記にも箴言にも書かれている」
 ただ、同じことは自分に対しても言えると考えると、ちょっとばつが悪くて、それで、どうかすると、自分が、まるで「復讐など考えません」と言わぬばかりの顔をしているように思えます。
 
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 主よ。悪者どもはいつまで、
 いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。(3節)
 彼らは放言し、横柄に語り、
 不法を行なう者はみな自慢します。(4節)
 主よ。彼らはあなたの民を打ち砕き、
 あなたのものである民を悩まします。(5節)
 彼らは、やもめや在留異国人を殺し、
 みなしごたちを打ち殺します。(6節)
 こうして彼らは言っています。
 「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない。」(7節)

 私の若い頃、亀井勝一郎という文芸評論家がいて、なかなか人気がありました、当時人気の左翼的論調に人道主義を加えて、どことなく儒教的な正義も混じっているような論調でした。その亀井氏が、「何が強いと言って、無神経ほど強いものはない」と書いていたのを、今でも覚えています。この場合の「強い」は横暴と同義語です。

 これは、「何が強いと言って、神を信じない者ほど強いものはない」とも言い換えられるかもしれません。
 悪いことをしてお金や地位を勝ち取って、勝者であることを勝ち誇ったり、横柄な態度で敗者を見下したりできる人はたくさんいます。神の御前に、自分を置かない人、神を恐れない人は、人間関係しか見えませんから、横暴ができるのです。
 「神などいない。仮にいるとしても、見ていない。気が付かない」と、うそぶけるのです。
 しかも、そのような考えは、どうかすると、神を信じているはずの人間をも、盲目にし、聞く耳をもたなくさせるのです。
 つぎの節では、異邦人だけでなく、イスラエル人にもそのような不信心者がいることが、指摘されています。

 気づけ。民のうちのまぬけ者ども。
 愚か者ども。おまえらは、
 いつになったら、わかるのか。(8節)
 耳を植えつけられた方が、
 お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、
 ご覧にならないだろうか。(9節)
 国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。
 人に知識を教えるその方が。(10節)
 主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、








posted by さとうまさこ at 10:48| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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