2015年10月05日

Coffee Break詩編・175 復讐は神のもの。(詩編109篇8節〜20節)

 

 聖書には「復讐は神のもの。神の怒りにまかせなさい」(新約聖書・ローマ信徒への手紙12章19節)とあります。ですから、クリスチャンになると、ほどなく、「人を呪う」ことを後ろめたく感じるようになります。
 とはいえ、怒りの感情が消えるわけではありません。世の不正から、個人的な利害関係まで、他人だけではなく自分自身に対してまで、ときに怒りの感情を覚えるのがにんげんではないでしょうか。
 神様は、そのような人間の足りなさをよく御存じである、理解して下さる、受け入れてさえ下さるのだと思います。
 どうしても憤懣やるかたないとき、むしろ、戒めのために自分を押し殺して偽善者を装うよりは、神様に叫ぶ方が正しいのだと、この詩編は教えてくれているように思います。

 彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、(詩編109篇8節)
 その子らはみなしごとなり、
 彼の妻はやもめとなりますように。(9節)
 彼の子らは、さまよい歩いて、
 物ごいをしますように。
 その荒れ果てた家から離れて、
 物ごいをしますように。(10節)

 これらは、神の罰――呪いの結果として、申命記などにも見ることができます。古代社会では、仕事がない状態、みなしごややもめ、物乞いなどが、神から見放された状態と見なされていたのでしょう。

 債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、
 見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように。(11節)
 彼には恵みを注ぐ者もなく、
 そのみなしごをあわれむ者もいませんように。(12節)
 その子孫は断ち切られ、
 次の世代には彼らの名が消し去られますように。(13節)
 彼の父たちの咎が、主に覚えられ、
 その母の罪が消し去られませんように。(14節)

 搾取され、働いても働いても飢えている状態、後ろ楯になる者もいない孤児、さらに、死んだ後にその名さえ覚えられない家、それが父や母の罪のためであると笑いものになることが、恥であったのでしょう。

 それらがいつも主の御前にあり、
 主が彼らの記憶を地から消されますように。(15節)
 それは、彼が愛のわざを行なうことに心を留めず、
 むしろ、悩む者、貧しい人、
 心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとしたからです。(16節)

 彼はまたのろうことを愛したので、
 それが自分に返って来ました。
 祝福することを喜ばなかったので、
 それは彼から遠く離れました。(17節)
 彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。
 それは水のように彼の内臓へ、
 油のように、その骨々にしみ込みました。(18節)

 今でも、一般的にそうですが、繁栄は祝福のしるしであり、没落や貧窮は神の呪いであるという因果応報思想が、いつの時代にも人間の感情に近いのです。
 神から油注がれた王ダビデ――その末に、救い主がお生まれになると神さまから選ばれた家の祖・ダビデにして、ここまで願うのかと、問いたいほどの箇所です。

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 それが彼の着る着物となり、
 いつも、締めている帯となりますように。(19節)
 このことが、私をなじる者
 や私のたましいについて悪口を言う者への、
 主からの刑罰でありますように。(20節)

 けれども、本当に苦しい時、本当にやり切れないほど敵が憎い時は、このような訴えも、神様は理解して下さるのかなと思います。
 私たちと神さまの関係では、「良い子」を演じることではなく、何でもお話しできることこそ大切なのではないでしょうか。隠したところで、神様は先刻私たちの心の中はご存知のはずです。
 ダビデは神様に対しては、甘え上手な人だったようです。






posted by さとうまさこ at 10:11| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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