2015年11月05日

Coffee Break詩篇・205 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。(詩篇119篇96節〜104節、申命記6章5節〜7節、6章17節〜19節)




 私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。
 あなたのことばを守るためです。(詩篇119篇101節)
 私はあなたの定めから離れませんでした。
 それは、あなたが私を教えられたからです。(102節)
 あなたのみことばは、
 私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
 蜜よりも私の口に甘いのです。(103節)
 私には、あなたの戒めがあるので、
 わきまえがあります。
 それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。(104節)

戒めや定めが、甘いと思えるのは、戒めや定めを下さる方が、愛を持って(言って)おられると確信できるときだけではないでしょうか。「愛のむち」などという言葉もありますが、愛があれば痛みを与えるむちでさえ、愛のしるしになるのです。
 じっさい、生まれてから一度も、痛い目にあったことがない人などいないでしょう。親や教師がむちを与えなくても、自分で躓いて頭を打ちます。思いがけず転んだり、人とぶつかったり、張り合ったり、生きるというのは見えない「格闘技」のようなものです。相手が友人だったり、仕事上の知り合いだったり、全くの行きずりの他人であっても、とにかく、人間は、他者と何の接触もなしに、何の摩擦もなしに、は生きることはできません。

 何の痛みもなしに社会を生き抜くことはできないとしても、それを未然に防ぐことはできますし、傷ついた後でも手当は出来ます。それが、神からの「みことば」ではないでしょうか。

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 信仰をもつことを恐れている人がたくさんいます。とくに、キリスト教には、厳しい戒律のイメージを持っている人が、案外多いのです。
 じっさいには、断食も座禅も果てのない黙想、修業など、信仰をもち、それを深めるために試験のようなものも、旧約聖書の時代から見てもまったくないのです。自分の努力と修業で信仰のステージを上げるような例話も、一つもないと思います。
 みことばは、人間が「神のようになるために」あるものではないと思います。もし、そういうものなら、ねじり鉢巻きで徹夜をして暗記し、唱える人も出て来るでしょう。
 たしかに、申命記には、次のように記されています。

 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっている時も、道を歩くときも、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。(申命記6章5節〜7節)

 しかし、この目的も同時に記されています。

 あなたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。
 主が正しい、また良いと見られることをしなさい。
 そうすれば、あなたは幸せになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を腫有することができる。
 そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。(申命記6章17節〜19節)

 これをすでに、自覚していた、詩篇の作者、詩篇の時代の人たちにとって、みことばが上あごに甘く、「蜜よりも私の口に甘いのです。」と言えるのは当然ですね。








posted by さとうまさこ at 10:09| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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