2016年06月07日

Coffee Break 雅歌19 雅歌を読み解く上で@



 詩篇、知恵文学に分類されている文書・「ヨブ記」「詩篇」「箴言」「伝道者の書」「雅歌」のうち、ヨブ記、詩篇を除く三書は、ソロモンの著作だと推測されています。いずれも確定的ではなさそうです。聖書は古文書で、とくに旧約聖書は二五〇〇年以上昔のものなので、研究するにもいろいろな困難があることが推定できます。

 しかし、聖書読者としては、ある程度、「ざっくりと」著者や年代を念頭においておく方が読みやすいのです。その意味で、研究者でも教師でも牧師でもないさとうは、一応ソロモンの著作に入れて読み進めてきました。

 さらに、謹厳なことわざ集である「箴言」、箴言より主観的体験を強くにじませている「伝道者の書」、愛の歌に特化した「雅歌」を耽読したあとでは、この三書がソロモンの書であるというのは、じつに納得できると思うのです。
 ソロモンと言えば、なんといっても、知恵の人です。列王記には、彼が神に「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えて下さい」と願ったと記されています。(T列王記3章8節)
 また、むずかしい訴え(二人の遊女の訴え)を見事に解決したこと(同16節〜28節)
彼があらゆる知識に富み、三千の箴言や千五百首の歌を残したこと、(同4章29節〜34節)シェバの女王が彼の評判を聞きつけて訪問してきてその知識と事績(宮殿やその秩序)の素晴らしさに感嘆したことが記録されています。(同10章1節〜13節)
 さらに、イスラエルの歴史において空前絶後の繁栄を築いたソロモンは、莫大な富と多くの女性を手にしました。

 箴言も伝道者の書も雅歌も、実際に、ソロモンのようなゴージャスな生き方をした人でなければ生み出すことはできなかったと納得させられるのです。あるいは、雅歌に関しては、ソロモンが書いたというより、ソロモンのささげられたという見方もあります。また、当時の祝婚歌だったとの説もあります。
 どのような来歴がある文書か、が問題でしょうか。むしろ、これが結局、聖書におさめられたことを見なければならないでしょう。

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 新実用聖書注解(いのちのことば社)によれば、雅歌について、六つの解釈が紹介されています。
 @比喩的解釈、A劇詩的解釈、B祭儀的解釈、C詩歌的解釈、D予型論的釈、E)純愛的解釈、

 それぞれの定義については、注解書を見ていただけるといいのですが、大きく二つに分けられていると考えられます。
 ひとつは、霊的解釈(信仰的解釈、@BD)で、もう一つは文学的解釈(ACE)です。
 霊的解釈は、神と人間との関係に基づいて解釈するので、聖書にふさわしい文書になります。一方、文学的解釈は、どうしても人間の営みに焦点が結ばれます。とくに、雅歌の場合、恋愛、それも性的関係にまで言及していると読めます。

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 性そのものは、神が与えて下さったもので、いわば人間の創造と不可分です。神はご自分がお造りになった被造物が、カップルになって支え合い、助け合うこと。性的交わりによって被造物のコピーを造っていくように意図されたのではないでしょうか。
 ただ、性の問題は、とても微妙です。

 すでに、言われ尽くしたことですが、性的関係と結婚とは同じことでもあり、まるで別のものでもあるのです。結婚は、なんといっても社会的に承認された関係です。たとえ、二人だけでひっそりと結婚したとしても、大勢の異性から相手を選び、互いに独占し合うのだという「諒解」があるはずです。
 一方、性的関係は、男女の交わりを指すだけです。結婚は性的関係をふくみますが、性的関係は結婚関係でなくても行えます。しかも、性的関係は当事者二人以外には、わからない「体験」です。一般的には、快楽だと言われています。人が姦淫をしたり、心にみだらな思いを抱いて女を見るのは(マタイの福音書5章27節28節)、性が肉体的な快楽と結びついているからでしょう。

 多くの恋愛歌が――どれほど婉曲な表現が使われていても、性的喜びに向かって歌い上げられているのは事実です。
 雅歌は、祝婚歌であるとしても、それゆえ、とうぜんその歌詞は二人の男女の秘め事にまで、及んでいます。
 どうして、このような歌がここに挟まれたのかは、私にはわかりませんが、この秘め事をあくまで神(キリスト)との関係になぞらえるのははたして、正しいのでしょうか。






posted by さとうまさこ at 11:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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