2016年09月04日

エレミヤ書84 ほんものの預言者・エレミヤ――このとおり、私はあなたがたの手の中にあります。{エレミヤ書26章10節〜15節)



 エレミヤの預言は、たしかに厳しいものでした。神殿が、かつての「シロの宮」のように跡形もなく失せると言ったのです。これは、神聖政治国家にとって、国が崩壊すると宣告されたも同然でした。神殿が亡くなることは、神聖政治国家の「政体」そのものが失われることです。
 ユダ王国は、このとき、たしかに王制ですが、シナイ契約の時に定められた祭祀儀礼と祭司制度、幕屋制度は生きており、その時、取り分けられたレビ族の働きがなくなったわけではなかったと思われます。多くの民を年に一度は、宮に上らせ、ささげ物をささげたいと思わせる神殿は、イスラエル人を一つに結びつける神・主とのきずなの中心であり、支えであったことでしょう。
 民の信仰は、祭司や預言者など、神の名のもとに活動している人たちの存在を物心で支え続けていたと思われます。
 その神殿が、失われるなどというのは、祭司階級にとっては、みずからの価値と生きるすべを、すべて否定されたのと同じです。じつに、恐ろしい預言でした。
 
 彼らがエレミヤを捕えたのは、理由のないことではなかったのです。しかも、死刑の宣告までしたのです。
 死刑は一大事でしたから、民がみんな集まってきたわけです。

 じっさいに行政を行なっているユダの首長たちも集まってきましたが、これは、さわぎを見るためではなく、死刑に当たるかどうか、評定(検討)するためです。
 主の宮の門には、そのような評定の場所がありました。

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 ユダの首長たちはこれらのことを聞いて、王宮から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入口にすわった。(エレミヤ書83章10節)
 祭司や預言者たちは、首長たちやすべての民に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの町に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」(11節)

 この場面は面白いですね。祭司や預言者(神殿に仕える者)は、告発するものです。いわば、検察側です。
 エレミヤは被告です。被告として、もう一度、彼の立場を説明しています。
 
 エレミヤは、すべての首長とすべての民に告げてこう言った。「主が、あなたがたの聞いたすべてのことばを、この宮とこの町に対して預言するよう、私を遣わされたのです。(12節)

 エレミヤは、「主が、主のことばを預言するようにと自分を遣わされた」と、自分の行動を説明しています。

 さあ、今、あなたがたの行ないとわざを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されるでしょう。(13節)

 神の宣告をしっかり聞きなさい。神様は、やみくもに、エルサレムの神殿をシロの宮のように滅ぼすと仰せなのではない。あなたがたが、主の御声に聞き従いさえすれば、「わざわいを思い直される」と、念押しをしています。
 つぎの言葉は、エレミヤが神の言葉に命を懸けている証拠です。
 
 このとおり、私はあなたがたの手の中にあります。私をあなたがたがよいと思うよう、正しいと思うようにしなさい。(14節)

 この箇所は、召命とは何か、預言するとはどういうことかを、あらためて考えさせてくれます。じっさい、神のことばを取り次ぐというのは、「命がけ」のできごとなのでしょう。

 ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が罪のない者の血の報いを、自分たちと、この町と、その住民とに及ぼすのだということを、はっきり知っていてください。なぜなら、ほんとうに主が、私をあなたがたのもとに送り、あなたがたの耳にこれらすべてのことばを語らせたのですから。」(15節)

 命がけで語っているものだけが、このように毅然とした態度を取り続けることができるのでしょう。

 すばらしく緊張感のある場面です。かつて、モーセがパロの前に立ってイスラエル人の解放を求めた場面にも劣らないですね。ほんとうの神がかりとは、このような神に支えられた態度を言うのかもしれません。







posted by さとうまさこ at 08:31| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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