2017年01月03日

エゼキエル書33 主の栄光はその町の真中から上った。(エゼキエル書11章21節〜25節)



 しかし、彼らの忌むべきものや、忌みきらうべきものの心を、自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行ないを返そう。――神である主の御告げ――」(エゼキエル書11章21節)
 ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。(22節)
 主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。(23節)

 主の栄光は、ケルビムといっしょに神殿の至聖所を離れて、とうとうエルサレムの東の山に移ってしまったのです。
 主が、「彼らの忌むべきものや、忌みきらうべきものの心を、自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行ないを返そう」と言われるのは、じつにこのことでした。神の民は、神が共にいて下さってはじめて、恵みや祝福が伴うのです。

★★★★★

 聖書を読んで、聖書の神と触れるとき、一番難しいのは、「神との関係が固定したものではない」ということではないでしょうか。まさに、「神は生きておられる」のです。
 天地創造の始めから、神は生きて語られ、万物を創造され、創造のみわざを喜んでおられます。息をし、その息を被造物である人の鼻から吹き込まれ、人が生き始めた時から、人の身を心配しておられます。アダムに 「助け手が必要だ」とエバをお与えになったのは、神が「一人でいる人(アダム)」を案じたからでしょう。
 彼らが、神の御命令に背いたときは、悲しみ怒っておられるのが、そのことばのすべてから読み取れます。
 楽園から追放するという厳しい「仕置き」は、神の怒りの炎、不義を憎む聖性が、彼らを焼き尽くさないためだと、説明されています。

★★★★★

 霊である方が、このように感情をもっておられるというのは、信仰を偶像という形のある物に仮託しないではいられない人々には、なかなか理解が及ばないのです。
 これは、偶像を拝むことが、神信仰だと信じて疑わない日本の様な風土で、キリスト教の神髄が理解されない理由のような気がします。
 神は霊です。と言われて、そうだと思う場合でさえ、霊をなんとか箱に入れて包装紙をかけて、さらに麗々しく風呂敷で包んでいる時に、思わず、頭を低くするのが人間です。その方が安心なのです。りっぱな神殿で、破格の待遇でお取扱いするのだから、神がそこにいて下さるはずだと思えるからでしょう。

 結局のところ、人は、神様さえ、管理したいのだと思わざるを得ません。自分の手の内にあり、奉仕の対象としていつの間にか、自分が神を仕切ってしまう、そうなりがちな性質があるようです。それはもちろん、サタンがそうさせているのであっても、サタンに従いやすい性格を自覚しないと、いつ、私も神から離れてしまうかわからない・・・。

★★★★★

 エゼキエルがエルサレムで見た幻は、ユダ王国断末魔の惨状でしたが、あらためて神とのお交わりを考えさせられます。それは、人となって世に来てくださった子なる神イエスを信じる信仰においても変わらないと思います。
 
 また、霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上って行った。(24節)
そこで私は、主が私に示されたことをことごとく捕囚の民に告げた。(25節)








posted by さとうまさこ at 10:57| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。