2017年02月02日

エゼキエル書62 エジプトの偶像をひきずるイスラエル(エゼキエル書20章8節〜12節)



 それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。(エゼキエル書20章8節)
 しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ。(9節)
 こうして、わたしはエジプトの地から彼らを連れ出し、荒野に導き入れ、(10節)
 わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。(11節)
 わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした。(12節)

 出エジプト記の最初と創世記の終わりの間には、時間があります。400年と解説されています。ヤコブ(イスラエル)の一族70人ほどが、カナンの飢饉を逃れて、ヤコブの11番目の息子ヨセフのいるエジプトに移り住んだのです。
 ヨセフはエジプトの宰相になっていましたから、移住したイスラエル一族は最初は特別な地(ゴシュンの地)を与えられ、厚遇されたのです。しかし、何度も王朝が代る間に彼らは、奴隷同然の身分に落ちてしまい、さらに生命力が強くて人数が多いのでエジプト人から警戒されるようになったのです。出エジプト記1章は、この間の事情を記しています。

 とうとうパロは、非情な命令を出すのです。
「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まれなければならない。女の子はみな生かしておかなければならない。」
 その時代にモーセは生まれ、彼がパロの娘に拾われて王子として生活することになるのその時代背景がここにあります。

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 イスラエル人の苦難に目を留められた主は、ミデヤンの地に逃れていたモーセの前に、燃える柴となって顕現されます。(出エジプト記3章2節〜)
 そうして、モーセをイスラエル人のリーダーとして召され、エジプト後から彼らを導き出すようにお命じになるのです。
 モーセがエジプトに戻り、パロと交渉してイスラエル人を導き出す出エジプトのいきさつは知られているとおりです。とても感動的です。主・神の御力の大きさ、強さと万能性が、圧倒的なスケールで現れています。けっきょく、エジプトという当時の超大国のパロ(権力者)は、奴隷の群れに屈服して彼らを出国させるのです。

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 イスラエルの民は、シナイの山で十戒を授けられ、天地をお造りになった大きな神をアブラハム神、イサク神、ヤコブの神――主と呼び、契約を結んでいただきます。
 
 エゼキエル書20章8節、「それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。」の「それでも」は、神が彼らを特別扱いにして契約して下さったそのいきさつを指しています。

 イスラエルの民が王国を立てた後にまで、しばしば偶像礼拝に染まってしまうのは、主にとっては、看過しがたいことだったのです。主は、ご自分の義を現わされるために、イスラエルを「選びの民」とされたはずです。主の目からご覧になったら、エジプト人と同様イスラエル人も罪深い人間だったでしょう。それでも、あえて、主はイスラエルを選んで、下さったのです。その理由は、正しい神――偶像ではない神――に従う民を育成しようとされたからではないでしょうか。
 「それなのに・・・」と、荒野からユダ王国の滅亡まで、またしても偶像を持ち込むイスラエル人に、神は語っておられます。








posted by さとうまさこ at 09:54| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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