2017年02月04日

エゼキエル書64 わたしの名のために(エゼキエル書20章21節〜24節)



 それなのに、その子どもたちはわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めを守り行なわず、わたしの安息日を汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。(エゼキエル書20章21節)
 しかし、わたしは手を引いて、わたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。(22節)

 聖書の神様のご性質を今風に言うと、「濃い」でしょうか。「情がほんとに深く、濃い」と表現するのがよいように思います。たぎるような愛とそびえたつ全能性のために、私たち人間の目からは、「畏れる」しかないご存在です。
 私(たち)は、親や先生が悲しむのをみたことがあります。大して悪い子どもではなかったと思いますが、子供は大人の目に、「心配と悲しみ」をもたらすのです。「ほっといて、一人でやるから」と言って転んだり、ケガをしたりするのです。
 大人の忠告を聞かずに失敗する子どもを、人間の親や大人たちも怒り哀しみますが、でも「聖書の神様」の怒りや哀しみは、人間の大人と子供の関係になぞられるには、あまりに「強くて、濃くて」、やはり、このたとえは、不適切かもと思うのです。

 出エジプトはBC1200年くらい(新実用聖書注解は、BC1445年)と推定されています。エゼキエルが神様から預言をいただいているのはBC590年くらいです。500年ものイスラエルの歩みの結果として、国の崩壊、バビロン捕囚があるわけです。神聖政治国家イスラエル、王制のイスラエルともに、神様の肝いりで立て挙げられたのです。モーセの正しさ、ダビデの信仰の深さがどれほどであったとしても、主がそのおつもりでなければ、イスラエルは存在しないのです。たしかに悪い王や民の間違いや叛きは数えられないほどだったと思いますが、それにしてもと、考えてしまうのです。「人の思いは始めから悪であるから」と仰せになった神さまなら、もう少し寛大に、「思ったほどよい子に育たなかったけれど、こんなものか」と思っていただければ・・・。

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 私なりに、神の熱いお怒りを納得するしかありません。それは、人間の大人が子供に期待している目標と、神様が私たちに期待しておられる基準とは、まったく違うためかもしれない! 人間なら、とにかく自立して生きるようになれば、まずまず良しとしなければならないのかもしれません。親(大人世代)はやがて死んでいくのであり、子供が大人になって世の中の主役になる、その子もやがて死んでいく前に次の世代が育つ。そうやって命をつないでいくのが生物としての生き様となる。それ以上、何を期待できる?
 短いスパンでは、いろいろ計画も夢もある人間ですが、何世代先の子孫たちをだれも指図できないことは「知って」います。どの親もみんな子どもと家の存続を願って来たけれども、王たちや滅び、王家や国も、ほとんど幻だったのです。

 しかし、神の御計画は、はっきりしています。神は、人類をふたたび御許に連れ戻そうというご計画をお持ちで、それを着々と実行に移しておられるのです。
 アブラハムが召されたのも、モーセが召されたのも、出エジプトが行なわれて、シナイでイスラエルと契約が結ばれ、やがてカナンにイスラエル王国を建てさせてくださったのも、神の御計画の内にあったことなのです。
 神の目的は、究極的に、全人類の救いです。イスラエルだけが幸せで楽しければよいということではないのです。

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 だが、わたしは、彼らを諸国の民の中に散らし、国々へ追い散らすと荒野で彼らに誓った。(23節)
 彼らがわたしの定めを行なわず、わたしのおきてをないがしろにし、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからだ。(24節)

 責任ある役割を負ったイスラエルに対して、神が激しくお怒りになるのは、ある意味当然のことです。
 この時代、イスラエル自身はもちろん、諸国も神がなさろうとしていることを理解できなかったのです。ですから、イスラエルが苦しんでいると、異教徒たちはあざけったことでしょう。だから、主は、「わたしの名のために」、苦しんでおられるのです。神の情を濃いと感じるとき、神の人への愛惜の深さをこそ思うべきなのかもしれません。








posted by さとうまさこ at 09:55| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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