2017年04月08日

エゼキエル書125 選びの民の「さわり」と「さばき」(エゼキエル書36章16節~19節)



 さあ、いよいよイスラエルの回復の預言が始まります。
 しかし、回復に先立って、イスラエルが惨めに散らされなければならなかった理由について、主は、念を押されています。

 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書36章16節)
 「人の子よ。イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した。その行ないは、わたしにとっては、さわりのある女のように汚れていた。(17節)

 イスラエルの家は、「その行いとワザとによって、つまりみずから」彼らの地を汚した、のです。「さわりのある女」とは、月経中の女性のことで、これが「さわり」であることは、レビ記に記されています。(レビ記15章19節〜) 
 もっとも、女子である筆者としては、生理的な現象――それも生殖という神の意図されているプログラムのための――である月経を「さわり」とされることには抵抗を覚えるのは当然ですね。もしこの箇所だけにこだわったら一冊の本になるくらいのものかもしれません。

 じつは、これは、イスラエルの律法だけでなく、私たち日本の文化でも、長い間「不浄」とされていたことです。私の祖母の世代は、生理中には神社に入ってはいけないと信じていました。ただ、日本の場合、それほど厳格な戒律だったかどうかはわかりません。何といっても、現実の「生活が優先する」文化です。お産の場合でも、産後ゆっくり七日間も休息できるのは、恵まれた階級の人たちで、農家の嫁となれば、出産直前まで野良に出て働き、産み終わるとすぐにまた野良に戻ってきたなどというエピソードもあるほどです。牛、馬、犬などのように「出産」することが「丈夫な嫁、理想の嫁」の条件だったのです。

 いや、話が逸れてしまいました。

★★★★★

 それでわたしは、彼らがその国に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのために、わたしの憤りを彼らに注いだ。(18節)
 わたしは彼らを諸国の民の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの行ないとわざとに応じて彼らをさばいた。(19節)

 主が、イスラエルの家を諸国へ散らされたのには、理由があったわけです。偶像礼拝、子供を犠牲にしたこと、それから、神の御心に反する多くの争い。
 同じように「血を流していた」国々は世界中にあったはずですが、とりわけイスラエルがフォーカスされているのは、わかりきったことですが、彼らが「神の選びの民」だからですね。選ばれるということは、責任、責めを負うものです。しかし、それゆえ、彼らは聖書に名が記され、人類の救いの歴史の重要な頁を埋めていたと思うのです。






posted by さとうまさこ at 11:39| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。