2017年04月10日

エゼキエル書127 回復して下さる神――わたしの名のために(エゼキエル書36章29節~38節)



 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。(エゼキエル書36節29節)
 わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。(30節)
 あなたがたは、自分たちの悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。(31節)
 わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。――神である主の御告げ――イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ。(32節)
 神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。(33節)
 この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。(34節)

 36章は、もともとイスラエルの山々に向かってなされた預言です。イスラエルの山々は、イスラエルの家のいわば畑であり、牧場です。その住人とは切っても切れない関係であることで、イスラエルの山々も喜ぶのです。

 さとうは、ここで、すでに読んだみことば、「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰ってくるのが近いからだ。」(36章8節)を思い出すのです。しかし、山々が荒れ果てたのはイスラエルの家の行いによるのです。預言は17節から、イスラエルの家に対するものに変わっています。彼らの行いとわざが主の怒りを招いたのです。
 ただ、そのような民を神は、きよい水を振りかけて回復して下さるのです。
 その理由は、ただ一つ。「神ご自身の聖なる名のため」です。

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 このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった。』と。(35節)
 あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう(36節)。
 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。(37節)
 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(38節)

 おりしも、イースターを迎えています。主イエスが私たちの罪を負って十字架に掛かって下さったこと、そのために私たちは、(自分の力ではなく)真っ白になった姿で神の御前に出ることができるようになったことを思い起こさせてくれます。
 さらに、イエス様はよみがえられ、復活されたというのは、私の希望です。
それは、かつて、人類が生まれた楽園で、私たちが永遠に、神とともに生きることができるための道であることを、改めて思わされるのです。

 エゼキエル書のこの箇所を読みながら、聖書は、まったくすべての箇所が意味を共有する大きな「物語」なのだと、これもまた、改めて思わされるのです。
 私たちが自分で、自分の罪の代価を払えないことが、それは、神ご自身が支払って下さることが、エゼキエル書でも明確に語られている、このことに、驚きと感謝を新たにするのです。







posted by さとうまさこ at 10:50| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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