2017年04月12日

エゼキエル書129 回復して下さる神2――わたしの名のために(エゼキエル書37章11節~14節)



 エゼキエルは、神によって骨の散乱した谷間に連れていかれました。神は、「これらの骨は生き返ると思うか」とお尋ねになりました。
 それから、

 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。(4節)
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。(5節)

 そして、
 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。(10節)
 というのです。

★★★★★

 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。
(エゼキエル書37章11節)
 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。(12節)

 神が捕囚の民に、「イスラエルの地に連れて行く」と仰せになっているのです。もともと、神がイスラエルの家を入れられたカナンの地は、人間的に見れば、「望郷の地、父祖伝来の彼らの住まい」に過ぎないかもしれません。しかし、イスラエルの民が故郷から切り離されることは、神から切り離されてしまうこと、永遠の死も同然であると、信仰から迷い出て罰せられた人たちでも、「わかっていた」はずです。神殿は、いわばイスラエルのかしらであり、心臓であり、その理由は、そこに神が降りて来てくださるいわば、イスラエルの盾、巌、城壁だったはずです。
 イスラエルが神の選びの地から切り離された時に、彼らの絶望は、生きていながら死んだも同然、枯れた骨のようだったのです。
 主は、生きていても「枯れた骨」のようになっている者と同様に、すでに異郷の地で死んだ者の墓にある骨までも、回復して下さるのです。

 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(13節)
 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ――」(14節)

 主をないがしろにした民、主にねたみを起こさせた忘恩の子供たちを、回復して下さるのは、主が「その御名を惜しまれた」からです。
 人を愛され、罪を犯して御前から追放された聖書の神様ですが、もとより、それは、罪をあいまいに許容なさらない神の愛の表れでした。神様は、追放直後から人を御許に連れ帰るご計画をもち、その大切な役割を受ける民としてアブラハムを選ばれ、イスラエルを育成し、文字通り、全能の父として彼らとともにおられたのです。
 神様は幾度も仰せです。「このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう」

 いまが、「この時」なのです。




posted by さとうまさこ at 10:38| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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