2017年04月21日

エゼキエル書138 わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。(エゼキエル書39章14節~29節)



 エゼキエルの預言は、捕囚の民に語られているのです。にもかかわらず、神の御心は、目の前の民の捕囚の状況を超えた大きなまぼろしとなっています。はたして、これらの預言は、当時のイスラエル人たちに理解されたのでしょうか。
 捕囚から帰還することが当面最大の関心時であるはずの人たちに、さらに起きるゴグ・マゴグとの戦いは、どのように映っていたのでしょう。

 彼らが帰還しても、平和に暮らす(未来の)イスラエルの山々でもまだ恐ろしい敵が彼らを攻めて来て、神の民は、血なまぐさい光景を見ることになる。ただ、最終的には、神が立ち向かって下さり、敵はイスラエルの山々に倒れるのです。

 彼らは、常時、国を巡り歩く者たちを選び出す。彼らは地の面に取り残されているもの、旅人たちを埋めて国をきよめる。彼らは七か月の終わりまで捜す。(エゼキエル書39章14節)
 巡り歩く者たちは国中を巡り歩き、人間の骨を見ると、そのそばに標識を立て、埋める者たちがそれをハモン・ゴグの谷に埋めるようにする。(15節)
 そこの町の名はハモナとも言われる。彼らは国をきよめる。(16節)

 イスラエルの家は、最後まで神に逆らって出て来た敵を最後に葬る役割を与えられています。まさに「わたしが主であることを知ろう」と実感しながら、彼らは自分たちの役割りに気が付くということでしょうか。

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 神である主はこう仰せられる。人の子よ。あらゆる種類の鳥と、あらゆる野の獣に言え。集まって来い。わたしがおまえたちのために切り殺した者、イスラエルの山々の上にある多くの切り殺された者に、四方から集まって来い。おまえたちはその肉を食べ、その血を飲め。(17節)
 勇士たちの肉を食べ、国の君主たちの血を飲め。雄羊、子羊、雄やぎ、雄牛、すべてバシャンの肥えたものをそうせよ。(18節)
 わたしがお前たちのために切り殺したものの脂肪を飽きるほど食べ、その血を酔うほど飲むがよい。(19節)
 おまえたちはわたしの食卓で、馬や、騎手や、勇士や、すべての戦士に食べ飽きる。――神である主の御告げ――(20節)
 わたしが諸国の民の間にわたしの栄光を現わすとき、諸国の民はみな、わたしが行なうわたしのさばきと、わたしが彼らに置くわたしの手とを見る。(21節)
 その日の後、イスラエルの家は、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。(22節)

 この39章のゴグとの戦いと勝利について、新聖書注解(いのちのことば社)は次のように解説しています。

 21−29節には、イスラエルの回復が記される。主がその終末論的な敵を最終的にさばかれることは、主の義を確立し、すべての民に対して主の栄光を現わすことである。
(中略)
 しかし、イスラエルは、主の契約の故に回復される。

 諸国の民は、イスラエルの家が、わたしに不信の罪を犯したために咎を得て捕え移されたこと、それから、わたしが彼らにわたしの顔を隠し、彼らを敵の手に渡したので、彼らがみな剣に倒れたことを知ろう。(23節)
 わたしは、彼らの汚れとそむきの罪に応じて彼らを罰し、わたしの顔を彼らに隠した。(24節)

 預言は、捕囚からの帰還と終末論的な主の招集が述べられて(同注解書)閉じられています。とても、さりげなく、とても重い預言です。






posted by さとうまさこ at 09:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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