2017年08月11日

ホセア書16 さあ、主に立ち返ろう(ホセア書6章1節〜3節、出エジプト記34章6節、詩編103篇8節〜10節)



  「さあ、主に立ち返ろう。
  主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
  私たちを打ったが、
  また、包んで下さるからだ。(ホセア書6章1節)
  主は二日の後、私たちを生き返らせ、
  三日目に私たちを立ち上がらせる。
  私たちは、御前に生きるのだ。(2節)
  私たちは、知ろう。
  主を知ることを切に追い求めよう。
  主は暁の光のように、たしかに現れ、
  大雨のように、私たちのところに来、
  後の雨のように、地を潤される。」(3節)

 この話カッコでくくられた言葉は、預言者ホセアの心の叫びでしょう。自分たちの神に対して姦淫を犯しているエフライムとユダに対して、ホセアは「だから、主に立ち返ろう」と呼びかけています。「主は、怒りによって自分たちを引き裂いても、かならず癒し、打ち傷を与えても、それを包んで下さる」というのです。

 ダビデも歌っています。

  主は、あわれみ深く、情け深い。
  怒るにおそく、恵み豊かである。(詩篇103篇8節)
  主は、絶えず争ってはおられない。
  いつまでも、怒ってはおられない。(9節)
  私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、
  私たちの咎に従って
  私たちに報いることもない。(10節)

 出エジプト記34章6節には、神が直接同じ言葉を発しておられます。

 主は彼(モーセ、さとう註)の前を通り過ぎるとき、宣言された。
  「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、――
 
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 ホセアの時代のイスラエルやユダの人たちすべてが、ダビデのことばや出エジプト記の記事を知らなかったとは思えません。
 モーセに率いられてカナンを目指していたイスラエルの民は、じつは何度となく不信の罪を犯して、主の怒りに触れているのです。とりわけ、カナンを偵察してきた12人の斥候の報告のうち、10人が「カナンの地には、巨人がいて、とても自分たちは入れない」と言ったため、民がみんなモーセとアロンにつぶやき、「エジプトに帰ろう」と言いだしたのです。この時、「主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。」のです。その怒りはすさまじく、主は仰せになりました。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」(民数記14章11節12節)

 それに対して、モーセは、神に民の罪を、必死に執り成し、先の出エジプト記で神が話されたことばを持ち出すのです。

 おなじことをホセアは、今度は、不信を犯しているエフライムとユダの民に告げているのです。詩編の続きにダビデも歌います。
(主は)
  私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、
  私たちの咎に従って
  私たちに報いることもない。(詩篇103篇10節)

 ダビデも、ここで「主を知ることを切に追い求めよう。」と訴えているのです。








posted by さとうまさこ at 11:45| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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