2017年08月13日

ホセア書18 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(ホセア書6章6節、Tサムエル記15章22節、レビ記)



  わたしは誠実を喜ぶが、
  いけにえは喜ばない。
  全焼のいけにえより、
  むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア書6章6節)

 偶像礼拝する人たちが、ささげ物をしないわけではありません。世界中の偶像の神々の祭壇で、今日でも山のようなささげ物がささげられていることでしょう。喜捨、献金、賽銭、布施、奉献、奉納物などと呼び方はさまざまですが、人は自分の神の前に出るとき、かならず供え物を持って行ったのです。
 これは、素朴に見れば、大きな力のある相手の前に出るとき、しぜんに行った本能的行為でしょう。ささげ物をして、代わりに、大きな力で守ってもらうのです。古代の多くの国では、人間の統治者さえ、ある意味「神」でしたし、王は同時に祭司を兼ねていたりしたのです。人間的な目は、服従のしるしとして、とうぜん、目に見える「対価」を要求します。支配者は、被支配者の産物や労力を集めることができたのです。
 ですから、人間より高い神的な存在に対し、人は素朴な気持ちとして、神の前に手ぶらでは出られないという本能があるのではないでしょうか。
 まして、大きなご利益を願っていたり、自分たちに後ろ暗いところがあれば、当然大きなささげ物を用意するのです。

 エフライムとユダの不義を叱っている途中に、神が、ささげ物について、わざわざ、「わたしは、わたしは誠実を喜ぶが/いけにえは喜ばない。/全焼のいけにえより/むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア書6章6節)と仰せなのは、偶像礼拝する者たちもたくさんのいけにえをささげていたからでしょう。神様の前に、「モノを積み上げれば良い」、と言う考え方を嫌っておられるからです。

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 聖書において、ささげ物の意味は、出エジプト全体の物語の中の文書・レビ記において明快です。それは、神への「なだめのささげ物」であり、「罪のためのささげ物」であり、「和解のささげ物」です。また一部は祭司への報酬です。
 ささげ物に使われるのは、羊やヤギ、雄牛で、貧しい人は鳩や麦でもよいことになっています。ささげ物をささげる場所とささげる人は決められています。それは神殿の聖所で祭司が行なう仕事でした。祭司だけが、ささげ物を仲立ちとして、神の御心を伺うことができたのです。祭司はレビ族のアロンの家系の男子がなりました。30歳以上で身体壮健で、病弱だったり体に欠陥があったりする者は、除外されました。定年もありました。

 じっさいには、のちには、幕屋や神殿の聖所以外でも犠牲がささげられています。カナン入植後に、相続地をもったイスラエル12部族は、それぞれにレビ人のための居住地を設け、そこにいたレビ人たちが、その地域での礼拝を行なったようです。士師記の中で、しばしば偶像礼拝が入り込んでいるのは、このような自由裁量の神礼拝には、異教が入り込みやすかったためと言えるかもしれません。また、サウルはもちろん、ダビデなども、戦場や逃亡中の野で犠牲をささげて祈っています。

 厳格な幕屋/神殿礼拝と、このような「現場主義の礼拝」のなかで、ささげ物の意味がぼかされてしまったことは事実でしょう。神の命令に聞き従わず、聖絶の物をもち帰り、ささげ物として使ったサウルに、サムエルは言うのです。

  主は、主の御声に聞き従うほどに、
  全焼のいけにえや、その他のいけにえを
  歓ばれるだろうか。
  見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
  耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(Tサムエル記15章22節)

 まして、ホセアの時代のささげ物は逸脱していました。
 聖書の神・主が重ねて禁止されている、人身御供をしていたのですから。







posted by さとうまさこ at 12:50| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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