2018年03月09日

マラキ書13 ささげ物と信仰・ささげ物の意味(マラキ書3章8節〜12節)



 マラキ書の「十分の一」は、レビ族の取り分であると、すでに書きました。レビ族にはカナンでの相続地が与えられなかったのです。彼らの相続地は「神の国の働き」でした。彼らの生活は、それゆえその働きによる俸給でした。それが、ほかのイスラエル十一部族が国に治める「十分の一」でした。

 聖書のレビ記には、ささげ物規定が厳格に述べられています。それらのささげ物と、レビ族への十分の一は、基本的に性質の異なる物だとさとうは考えます。「神にささげる物」と、「神の働きにささげる物」との違いとでも言えるでしょうか。
 神にささげるささげ物は、「和解のためのささげ物」「罪のためのささげ物」「なだめのささげ物」などと呼ばれていますが、突き詰めれば、人が自分の罪の代価として差し出す「いけにえ」です。その罪とは、象徴的に、かつてアダムとエバが犯した罪です。なに不自由のない楽園で、神との交わりと保護のもとにあった人間が、「悪魔のささやきにそそのかされて神のご命令に背いた罪」です。罪を犯した人間は、本来、自然に保障されていた 神との交わり、永遠だった命を失ってしまったのです。
 何とか神とお会いしたい、もう一度お交わりをしたいという欲求は、楽園追放の直後から人の心にあったのでしょう。「祈り」は、それゆえ、神との関係を回復したいという人間として当然の願いからはじまったと言えます。また、人は、神の御前に出るためには、罪を許していただかなければならないと、本能的に「知っていた」のではないでしょうか。

 驚くのは、真の神の姿を見失っているような偶像礼拝でも、ささげ物をしなければ神に祈れないと知っていたことです。お供え物なしに、神の前に出ることはできないと、人間は本能的に知っているのです。たとえ賽銭箱に小銭を投げ入れるような行為でも、手ぶらではないというアリバイ証明になります。他方「良い物をささげる」つもりで、自分の子供や処女を祭壇にささげるような宗教もありました。

★★★★★

 カインとアベルのささげ物に戻って考えてみましょう。彼らは、アダムとエバの記憶を継いでいますから、その後の人たちより、はるかに神に近かったのでしょう。収穫物があったとき、神にささげ、それを神が「ご覧になり、目を留められた」あるいは、「止められなかった」とさえ、確信を持てたのです。さとう個人の考えですが、さとうは、これを神様の愛を渇望するあまりの、カインの心の投影かと思います。素朴に感謝のささげ物をして、それ以上のものを、神に期待するのは仕方がないことかもしれません。

 アブラハムにしても、最初のささげ物は「感謝のささげ物」です。(創世記12章7節)
 シナイ契約で、神が厳格に命じられるまで、人は、「礼拝のためのささげ物(全焼のいけにえ)」「罪のためにささげ物」「和解のささげ物」など、目的別のささげ物があることを意識していなかったのではないでしょうか。
 もちろん、全焼のいけにえ以外は、祭司やその働きを担った者、ささげた者たちで、会食したようです。しかし、それは俸給ではありませんから、別途、十分の一が規定として命じられたのでしょう。

★★★★★

 問題は、「十分の一」を、そのまま現代の教会の献金の根拠するのは、聖書的に適切なのか。教会にとって、益のあることなのかです。
 これについては、明日続きを書きます。引き続き、訪問くださいますよう、よろしくお願いします。










posted by さとうまさこ at 11:57| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。