2018年03月10日

マラキ書14 新約時代の献金と旧約時代のささげ物(マラキ書3章8節〜12節)



 旧約聖書のささげ物には、「罪の代価」と「税金」の二種類がありました。
 神聖政治国家イスラエルは、祭祀儀礼が国の根幹です。国家の頂点におられる神を礼拝し、神のご意向を伺い、それを民に告げ知らせ、神の民にふさわしい国を築いていくシステムが、幕屋制度――祭祀儀礼です。そのために、レビ族が選ばれたのです。彼らは、「神に仕える仕事」を相続地として与えられたのです。
 ただ、これを現在の教会の献金の根拠にして、「十分の一献金」というのは、どうでしょう。たしかに、、はマラキ書。民数記18章26節;申命記14章22節などに、十分の一をささげることが命じられています。しかし、新約聖書には、教会に献金をしなければならないと、神のご命令として命じられている聖書箇所は、なさそうです。

 罪の代価としてのささげ物は、イエスの十字架上の贖罪によって終了したのです。新約の民は、イエスの贖いの死による救いを信じることができるのです。そして、キリストを信じる信仰だけで救われ、神のみもとで永遠に生きることができると約束されているのです。「いのちの代価」としてのささげ物は、キリストへの信仰に取って代わられたのです。

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 献金について考えるとき、教会が「この地上にある限り」、地上的な価値、お金が必要だという事実を見なければなりません。

 伝道をし、教会を運営するのにもお金が必要です。教会堂をもたないと決めていても、礼拝活動はどこかでしなければなりません。会場費や家賃光熱費、通信費、最低限の機材の購入などに経費がかかります。群れをまとめる牧師や伝道者も生身の人間である限り、衣食住の経費が必要です。それらの費用をどこから出すのか、といえば、「献金」によるのです。献金はすでにクリスチャンになった人たち、また、キリスト教の理念や行いに共感する人たちから募るしかありません。こんなことは、だれでもわかることですから、多くのクリスチャンたちは、自発的に喜んで、教会に献金をしています。クリスチャンの少ない日本でも、財政の苦しい教会が多いとはいえ、教会は存続し、働きをしています。

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 旧約聖書の十一の例などを持ち出さなければ、献金の根拠はないのでしょうか。もっと良い、多くの人が素直に共感できる根拠はほかにないのでしょうか。

 私はただの一人の信徒にすぎません。それでも、新約聖書に、ささげ物の根拠を見つけるのは難しくないように思います。
 その第一は、神への感謝の気持ちです。イエス様の十字架の贖いに対して、私でも、ときに、何をお返しできるのかと思うのです。
 この恩寵に対して、神が私たちに望んでおられることは、何なのでしょう。それは、神をおそれ、ほめたたえ、十字架の奇跡をほかの人に伝えることしかありません。「全世界へ出て行って福音を宣べ伝えなさい」と命じられているとおりです。(マタイの福音書28章19節20節、マルコの福音書16章15節、ヨハネの福音書20章21節)、感謝と賛美、伝道が、新約の民が、神にささげられる物です。その一つの表現として、献金があるのだと思います。
 じっさい教会の献金は、いろいろに名目に分けて支出されているのですが、その目的は「伝道」「宣教」に集約されます。小さな文房具もコピー機のリース代も、電話通信費も、書籍も、コーヒーなど飲み物、食べ物。しばしば焦点になる大きな支出である牧師給。これらもすべて、伝道のための費用なのです。

 旧約聖書には、「聞き従うは犠牲にまさる」(Tサムエル記15章22節)と、形式的なささげ物を戒めている箇所もあります。

 救い主がお出でになる前の旧約時代の、迷いの多い民の行いと、キリストに贖われ、感謝と喜びにある新約の民の基準は、明らかに異なっているのではないでしょうか。できるなら、神のお叱りのことばではなく、積極的な励ましのあるご命令のことばで、献金を促していただければ、と思うのです。






posted by さとうまさこ at 11:55| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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