2018年03月11日

マラキ書15 神の祝福とはなにか(マラキ書3章9節〜18節)




  あなたがたはのろいを受けている。
  あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。
  この民全体が盗んでいる。(マラキ書3章9節)
  十分の一をことごとく、宝物蔵に携えて来て、
  わたしの家の食物とせよ。
  こうしてわたしをためしてみよ。
  ――万軍の主は仰せられる――


 「十分の一を携えて来て、わたしを試してみよ」と、主は仰せです。

  わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
  あふれるばかりの祝福を
  あなたがたに注ぐかどうかためしてみよ。(10節)
  わたしはあなたがたのために、
  いなごをしかって
  あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、
  畑のぶどうの木が不作とならないようにする。
  ――万軍の主は仰せられる――(11節)
  すべての国民は、
  あなたがたをしあわせ者と言うようになる。
  あなたがたが喜びの地となるからだ」と
  万軍の主は仰せられる。(12節)

 神がここまで懇切にささげ物を促されるのは、感動的なことです。これらのことばには、神の品性をそこなうかもしれないような、なりふり構わない切実さがあります。イスラエルの民は、このようなわかりやすい表現で説かれなければわからない民であったのでしょう。ほんとうは、神の「天の窓」はいつでも開かれていて、あふれるばかりの祝福も常時地上に、注がれているはずなのです。いなごの害もあり、ききんがあり、ぶどうが実らない年もあることでしょう。しかし、それでも、神の祝福は注がれていると考え、感じ、神を喜ぶ者となることができるはずなのです。旧約聖書では、祝福は、具体的に「見える豊かさ」――健康、子孫繁栄、戦勝、経済的繁栄です。(申命記28章1節〜14節) 本当の祝福は、主の聖なる民として立ててくださることにあるのですが、その「証拠として」、目に見える繁栄が約束されているのです。
 ところが、マラキの時代、神のこのようなお約束を信じることさえできない、不信仰がはびこっていたのでしょう。
 民は、神と論争をしています。

★★★★★

  「あなたがたはわたしに
  かたくななことを言う」と主は仰せられる。
  あなたがたは言う。
  「私たちはあなたに対して、何を言いましたか。」(13節)

 7年前の今日3月11日、東日本大震災が起きました。東京では震度5くらいで、さいわい、自分の生活が根本からひっくり返るようなことはありませんでしたが、余震が続く中で半日以上、不安におびえていたのを告白しないわけにはいきません。その日のうちに、東北地方のひどいダメージを知ることになり、暗澹としたのを覚えています。祝福が、死や災害と正反対のものであるのは、当然のことかと思います。
 健康と長寿、それを支える経済的繁栄、さまざまな分野での成功、素敵な家族などに、幸せを見るのはしぜんですね。

 ただ、そのような「幸い」「祝福」が、しばしば拡大評価されるのも事実です。無事であることが幸せであるのに、無事の範囲を拡大してしまいます。その日その日の糧があれば満たされるているはずなのに、「毎日マナで飽き飽きした」と言い出します。「明日の心配は無用です」(マタイの福音書6章34節)と、神様から教えられても、明日の心配をします。蓄えが一か月分あればよいのか、一年分なのか、十年分なのか、どのようにでも理屈が付きます。はては、到底使い切れない「蓄え」に憧れます。
 ビジネスのために資本を集めるのは仕方がないことですが、遊んで暮らせる資本を欲しがるようになります。さらに遺産や賞金のように「汗を流さない」お金に憧れを持つ人もいます。必然的に、人が富を持っていると妬むようになります。妬みの対象となる人を「祝福された人」と拡大解釈します。
 名声があり、権力があり、富がある人たちは、しばしば批判の対象になります。素朴な努力だけで、大きな権力や富や名声を得ることなんかできるはずがない何か不法を行っているのではないか。と、感じる人がいるからです。
 
  あなたがたは言う。
  「神に仕えるのはむなしいことだ。
  神の戒めを守っても、
  万軍の主の前で悲しんで歩いても、
  何の益になろう。(14節)
  今、私たちは、
  高ぶる者をしあわせ者と言おう。
  悪を行っても栄え、
  神を試みても罰を免れる。」と。(15節)


  そのとき、
  主を恐れる者たちが、互いに語り合った。
  主は耳を傾けて、これを聞かれた。
  主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、
  主の前で、記憶の書が記された。(16節)
  「彼らは、わたしのものとなる。
  ――万軍の主は仰せられる――
  わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。
  人が自分の仕える子をあわれむように。
  わたしは彼らをあわれむ。(17節)
  あなたがたは再び、正しい人と悪者、
  神に仕える者と仕えない者の違いを
  見るようになる。(18節)

 神に聞き従うのは、むなしいことだと思わせるような「仕掛けが」世の中にはたくさんあります。
 聖書は、そのような弱い私たちに、次のように警告しています。
 主が、事を行われる日に、主が憐れんでくださる者となること、正しいものと悪者を分けられ、神に仕える者と仕えない者を分けられるときに、「泣いて歯ぎしりしても遅い」(マタイの福音書22章13節)と仰せなのです。



posted by さとうまさこ at 11:41| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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