2018年03月21日

Coffee Break 聖書通読エッセイを振り返ってF 神の奇蹟



 神は、この一瞬の宇宙のすべてを切り取って、すべてをご覧になることができる方です。同時に、人間がその中で生きている時間軸の歴史をも見通しておられると、聖書は語っていると思います。天地創造、人間の創造から始まる「神の救いの歴史」は、時間軸の中にあるのに、一瞬にすべてが見渡せる鳥瞰図のようにも、語られています。楽園を追放される時から、ふたたび神とともに楽園で憩う日までが預言されているのは、ふしぎな「神の仕掛け」と言うしかないように思います。
 いわば最初から種明かしが書かれています。俗な言葉でいえば、「ネタバレ」です。同時に、「人は、それを理解できない」との観点も見えます。とても楽しいはずなのに、しばしば立往生したのは、知的能力、身体能力のない自分なら当然だった・・。
 
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 VIPという団体に掲載されていたある「証」が印象に残っています。奥さんを教会に送迎していたので礼拝に出席するようになり、洗礼も受けた。新約聖書・マタイの福音書から読み始めた。長々しい系図も、処女降誕もイエスを誘惑するサタンの話も、なんとか「飲み込んだ」。しかし、とうとう5千人の給食の話で、ついていけなくなった。
 その方はもちろん、お証をした時点では、りっぱなクリスチャンになっていたのです。
 でも、常識があって有能で、世間でそれなりの仕事をしているような男性が、五千人の給食を計算間違いだと思っても無理からぬことです。それは何の暗示だろう。何を象徴しているのだろう、と考えるのも当然です。何か、下敷きになるエピソードがどこかにあるに違いない。ユダヤのことわざとか、中東の小話。「いや、待てよ」と計算を始め、ひとり一グラムずつ与えられたのか。そうだとしても、五キログラムのパンが必要だ、当時のパンは一個一キログラムもあったのか。

 たいていの教会は、キリスト教の教えと言えば、新約聖書の福音書から入ります。イエス・キリストを知らずして、キリスト教はあり得ないのだから当然です。しかし、「救い主がお出でになった」と言う話は、いわば起承転結の最終部分「解結」の部分です。

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 旧約聖書を読んでいたら、いつのまにか「奇蹟」を信じるようになっている、とさとうは今、実感しています。
 通読の最初の頃、聖書は、神がおられることが前提の物語、神が主役の物語なのだから、まず、その前提で読むことと。「聖書の著者は神」とは、まっとうなキリスト者なら、だれでも認めています。神は全能のお方で、奇跡を顕されるなど簡単なことなのは、旧約のいたるところに書かれています。
 そのような神のみ力を体験したあとでは、じつは、処女懐妊も、水をふどう酒に変えることも、五千人の給食も、水の上を歩くことも、簡単なことです。また、このようなわざを行われるイエス様が神であることも、自然に理解できます。

 旧約聖書は、クリスチャンのためであるのはもちろんでしょうが、神とは何かと問い続けている人、ノンクリスチャン、キリスト教に関心のある方にとっても、とても有用で、エキサイティングな書物だと思うのです。




  
 
posted by さとうまさこ at 10:56| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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