2011年08月22日

ヨシュア記・予告







    ヨシュアの世界



 さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。

 わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。

 あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。


 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
                               (ヨシュア記1章1節〜6節)






     八月二十四日水曜日からヨシュア記に入ります。

     Coffee Breakは、正面から聖書に取り組んでいますが、

     聖書解説ではなく、エッセイです。
   
     
     お茶のひと時の、ホッとする読み物になればと願っています。

     ぜひ、お訪ねください。

                                   さとうまさこ
     























































































































































































































 





































































































































































































































































































































































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2011年08月24日

Coffee Breakヨシュア記1 モーセからヨシュアへ(民数記27章12節〜23節)





 私は関西で生まれ育ちましたから、少女時代、ときどき、宝塚歌劇を観に行きました。当時の宝塚歌劇の大スターは、男役を演じる人たちでした。大変人気があって、まるで、恋人の写真のように、男装のスターのブロマイドを持ち歩いている女子高生がいるほどでした。歌劇の演目は、ほとんど毎月新しくなっていて、ホンモノのファンは、毎月、新しい舞台を観に行くのが自慢でした。また、雪組、花組、月組、星組とグループになっていたので、特定の組をひいきにして、その公演は欠かさず観る人もいました。私はそれほどのファンでもなかったのですが、たまたま、友人に誘われて行ったとき、主役のスターが休場で、代役の名前が開幕直前にアナウンスされました。すると、会場に失望のブーイングが湧き起こりました。代役を演じた人はその後、スターになっていくのですが、その時は、主役が小粒になって、会場の熱気が落ちた感じがしました。

 ★★★★★ 

 
 エンターテイメントの舞台であってさえも、主役のスターが入れ替わると、観る人が心を痛めるのです。

 出エジプトは、イスラエルの民六十万人の命運がかかっていました。エジプトから四十年かけて、ようやくカナンの入口にたどり着いたイスラエルの民にとって、これからヨルダン川を渡ってカナンに入植するという時に、モーセからヨシュアに指導者が交代したのは、どれほど重い出来事だったでしょう。
 イスラエルの民は、もとより、出エジプトの主体であって、傍観者、観客でないのです。神と顔と顔をあわせて語り合うことができるような偉大な指導者モーセの代わりは、その従者だったヨシュアです。新しいリーダーに不安をいだいたとしても、当然だったでしょう。


 アロンがホル山で死んだ時のように、モーセもアバリム山に登って死ぬようにと神から申し渡された時、モーセ自身が民の将来を心配して神に訴えています。

 「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、
 彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを入らせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」(民数記27章17節)

 主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。(18節)
 彼を祭司エリアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。(19節)
 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。(20節)
 彼はエリアザルの前に立ち、エリアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エリアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、入らなければならない。」(21節)

 モーセは主が命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エリアザルと全会衆の前に立たせ、(22節)
 自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。(23節)


 この間、ヨシュアの言葉や、任命を受けた彼の反応はいっさい記録されていません。
 ヨシュアは、もう覚悟ができていたのでしょう。なにしろ四十年もモーセの副官として、モーセのそばで、大リーダーの姿を目の当たりにし、神に従う姿を学んでいたのです。
 また、誰一人見ていないホレブの山で、神から召命を受けたモーセはイスラエル人が自分を信じないのではないかと恐れました。それにひきかえ、すべての民の前で任命されたヨシュアは、自信をもてたのではないでしょうか。






      聖書の引用は、新改訳聖書を
      使わせていただいています。







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2011年08月25日

Coffee Breakヨシュア記2 ヨシュアのデビュー(出エジプト記24章、民数記13章14章、ヨシュア記1章)





 ところで、ヨシュアとは、どのような人物でしょう。
 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。(出エジプト記17章8節)
 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私が神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」(9節)


 ヨシュアは、ここで初めて聖書に名前が出てきます。モーセからアマレク(エジプトからカナンの間に住む砂漠の民、新実用聖書註解・いのちのことば社)と戦う副官として抜擢されたのです。ここには、モーセが戦いの間中、神の杖を掲げていたこと(神様が戦ってくださったという意味)が勝利の要因で、ヨシュアの手柄ではないのです。けれども、まだ、軍備も組織も整っていないイスラエルがエジプトから出て来て、はじめての敵と遭遇したときに抜擢されるヨシュアは、注目に値します。

 次に、ヨシュアはモーセがシナイ山に上る時に従っています。(出エジプト記24章13節) 四十日四十夜、モーセといて、いっしょに山を下りてきました。(32章17節)
 その後、シナイでモーセが天幕から自分の宿営に戻る時は、ヨシュアが幕屋を警護していたとの記録があります。(33章11節)

 何よりも、ヨシュアの名前が光るのは、カナンを偵察するための十二人の斥候の一人に選ばれた時でした。(民数記13章14章) 十二人の斥候は、イスラエル十二部族の代表でした。彼らは偵察地を探り、その地の産物を切り取って、四十日後に帰ってきました。主(神)が約束してくださった地は豊かで、斥候も、そこはまことに乳と蜜が流れています。これがその地のくだものですと報告したのです。
 「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。」 十人の斥候は、そこには他にも強そうな民がたくさんいて、とうてい攻め上れない。あの民は私達より強いからと、悲観的な分析をしました。この報告を聞いたイスラエルの民は、激しく動揺し、自分たちのかしらを立てて、エジプトに戻ろうと言い出しました。

 ただちに、ヨシュアとエフネの子カレブは、着物を裂いて、民に訴えたのです。

 「私たちの巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。(14章7節)
 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜が流れている。」(8節) 


 この時の、神への叛きのために、当時、二十歳以上だったイスラエル人は、ヨシュアとカレブを除いて誰もカナンに入れないと、神に宣告されるのです。ですから、モーセが死んだ時のイスラエル人は、当時二十歳以下だった者たちか、その後に生まれた者たちでした。ただ、ヨシュアが神に従順な人であることは、知れ渡っていたでしょう。
 ヨシュアに、モーセが神の御声を聞いて手を置いたことは、ほとんどの民には納得できることだったはずです。

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 モーセが死ぬと、主(神)は、ヨシュアに告げて仰せになりました。

 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。(ヨシュア記1章2節)
あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(3節)
 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。(4節)
 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(5節)


 カナン攻めは、厳しい戦いになることがわかっていました。
 神が与えてくださると言っても、じっさいに剣をもって戦うのはイスラエルの民なのです。
 前にも書きましたが、戦争とは、互いに武器をもって雌雄を決するものです。血を流すのは必定です。これは、今日でも基本的に同じです。空爆やミサイルなら、直接殺した相手が見えませんが、現実にはおびただしい敵を殺しているのです。

 どのようなことでもお出来になる全知全能の神ですから、災害か何かでカナンを更地にし、そこにイスラエル人を入れることも出来たでしょうが、神は戦い取らせようと決めておられるのです。神ご自身が人間の戦いを見て、楽しまれるためではありません。楽園を追放されて以来、罪に罪を重ねる人間が殺しあうのを、神様はうんざりするほど見てこられたのです。
 神はなんとか人間をもう一度、御許(神の支配する国)に連れ戻そうとされているのです。アブラハムを召しだし、アブラハム・イサク・ヤコブの神として、イスラエルを選びの民とされた時から人類救済のご計画が始まっていました。イスラエルは、ご計画に従って、カナンに神の律法が支配する国を実現しなければなりませんでした。そのためには、堕落し切った先住民を完全に滅ぼし尽くす必要があったのです。
 

★★★★★ 

 はっきりしていることがあります。神様も、これが、ヨシュアにとって、またイスラエルの民にとって、手に余るほどの「挑戦」だとご存知なのです。ですから、ヨシュアを励ましておられます。

 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。(6節)









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