2011年08月26日

Coffee Breakヨシュア記3 ただ強く、雄々しくあって(ヨシュア記1章6節7節)




 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。(ヨシュア記1章6節)
 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。(7節)


 出エジプト記で始まったカナンへの旅は、四十年もかかってしまいました。地図で見ていただいてもわかるのですが、エジプト──カナンの距離は、せいぜい一ヶ月もあれば到達する距離でした。なぜ、これほど時間がかかってしまったのでしょう。六十万人という膨大な人数で、それ以外に、女・子ども・老人、病人、障害者、外国人、家畜、テントなどを抱える「民族の大移動」だったので、時間がかかったことでしょう。また、大部分が砂漠同然の荒野ですが、そうでない場所ではアマレクのような敵と遭遇したのです。水や食物が思うに任せないので、騒動が絶えないことも旅を足止めした原因です。
 けれども、一番大きな理由は、カナンを偵察してきた十二人の斥候のうち、十人が悲観的な報告をしたとき、イスラエルの民が恐れをなしてエジプトに引き返そうと言いだしたことでした。これは、神の御心とご計画に叛くことでした。この不信仰で意気地のない態度に、神は、その時二十歳以上だった者が死に絶えるまで、イスラエルの民はカナンに入れないと宣告なさったのです。ヨシュアとカレブと祭司エリアザルだけが例外でした。世代が入れ替わるために四十年が必要だったのです。
 
 新しいリーダー・ヨシュアに、神が幾度となく「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましておられるのは、信仰に伴う勇気こそがイスラエルの民に必要だったからです。奴隷だった民、砂漠の難民同然の集団のイスラエルですが、シナイ契約以後、神政政治国家としての理念や骨格、祭祀儀礼や制度は、しだいに整っていました。けれども、定住地のない民の軍備や財物は、しっかりと定住している国々の人たちと較べれば、どれほどのものだったでしょう。
 イスラエルの民は、神がともにいて下さって、多くのしるしと不思議を経験したあとでさえ、なかなか、神やモーセを信頼できない不信仰の人たちでした。絶対的な信頼さへ置けば,どんな強大な城壁より確かな神の守りだったのですが、どうしても、自信がもてないわけです。
 モーセがモアブで、もう一度契約を結びなおし(申命記)、民に、声を涸らして演説したのは、そのようなイスラエルを心配したからでした。カナンに入るためには、なんとしても神の約束に信頼する信仰が必要でした。信仰を実践するためには、勇気が必要でした。
 それが、強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。なのです。

 
 ★★★★★

 「強くあれ。雄々しくあれ」を、いま風に言い替えてみると、「しっかりしなさい。がんばるのよ。勇気を出して」とでも、なるのでしょうか。
 いまは、「しっかりしなさい。がんばって」と励ましてはいけないと、聞きます。例えば、心が傷ついて診療内科を訪ねるような人、登校拒否でどうしても学校へ行けない子ども、家族を失って悲しんでいる人、何か不治の病を告げられて絶望している人。そういう人を励ますのに、「しっかりしなさい。がんばって。挫けないで」は、禁句なのです。
 これは言葉やシチュエーションの問題ではなく、励ます側の問題かもしれません。励ましのことばが、用をなさないばかりか、害にさえなると思われるのは、人と人との間では、結局、どうして上げることもできないからかもしれません。

 ヨシュアへの励ましは、神からのものでした。「ここをがんばって右にも左にもそれなければ、あなたは繁栄する」「わたしはあなたとともにいる」と約束してくださっているのは、全能の神なのです。 
 私たちはみんな、人生でなんとしても手に入れなければならない「約束の地カナン」を心にもっているのではないでしょうか。そのために、一番苦しい戦いを戦い抜かなければならない時があります。しかし、そのような時にかぎって、恐れが生じ、ひるんで、足がすくんでしまわないでしょうか。
 神は、そのような「弱い」私たちのために、「強くあれ。雄々しくあれ」と言う言葉を、聖書に残し、三千年後の私たちを励ましておられるように、私には思えるのです。






posted by さとうまさこ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月27日

Coffee Breakヨシュア記4 右にも左にもそれてはならない(申命記1章7節)


 

 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。(7節)

 創世記に出てくる人々は、「惑っている人」ばかりです。アブラハムは、神の声に従ってハランからカナンにでて来たとき、「おお、やっと着いたぞ!」と、妻や甥のロトと喜び合って荷物を解いたでしょうか。テントを張って、定住の準備を始めたでしょうか。
 いいえ。
 聖書には、次のように記録されています。

 アブラム(アブラハム)はその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。(創世記12章6節)
 そのころ、主がアブラムに現れ、そして、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れて下さった主のために、そこに祭壇を築いた。(7節) 


 長旅の果てに着いた土地には、先住民がいたのです。いくら太古の時代(紀元前二千年くらいと考えられています)でも、テリトリーはあったでしょうから、先住民がいるところで、断りもなく家畜を放牧したり、木を切り倒したり、泉から水を汲んだりできなかったでしょう。
 アブラムは、当惑したに違いありません。「さて、このあと、どうしたものだろうか・・」と、先住民を遠望しているアブラムの様子が見えるようです。
 そのような迷いの中にいるアブラムに、神は「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられ、アブラムは自分に現れて下さった主のために、そこに祭壇を築いた。のです。神のお言葉に、アブラムは祭壇を築いて礼拝したのです。なぜでしょう。迷いの中で、「しるべ」を頂いたからに違いありません。のちに、アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15章6節) と書かれているアブラハム契約の端緒は、早くからあったわけです。

★★★★★

 モーセはイスラエルの民に、主の前で祈るとき、次のように唱えるよう教えています。
「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。」(申命記26章5節)

 これは、直接にはヤコブ(イスラエル)を指しているように思えますが、文脈としてみるとアブラハムからイサクへと続く、彼らの父祖たちのことです。ヤコブでさえ、「迷いつつ」その日その日を送っていた遊牧民でした。
 明日はどうなるのだろうと惑う生活の中で、彼らは神の声を聞いたのです。アブラハム・イサク・ヤコブのような、「救いのご計画」の中心にいた人たちだけではありません。アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルもそうでした。子供ができないサラの代わりにアブラハムの子供を産んだハガルは、その後、サラにイサクが生まれると、追い出されてしまいます。息子イシュマエルとともに、砂漠を彷徨(さまよ)い、死のうとしたところに、主(神)が、現れて声をお掛けになるのです。ハガルは(霊的な)目が開け、井戸を見つけて生き延びることができました。(創世記21章) イシュマエルの子孫がアラブ人になったのです。

 ★★★★★

 
 特定の人びとに現れて下さった神が、シナイで、「神のおきてと戒め」(律法)をモーセにお与えになった時、神の導きは、特定の人のものではなく、全イスラエル人を対象としたものとなりました。
 それぞれの人びとは、預言者のように直接神の声を聞いたり、幻を見たりすることはないのですが、律法はそれに匹敵する導きでした。
 だからこそ、モーセはくどいほど、律法遵守を訴えました。そして、ヨシュア記の始りで、神は改めて、すべてをよく承知しているヨシュアに、念を押されているのです。


 わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。(7節)





posted by さとうまさこ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月29日

Coffee Breaヨシュア記5 ヨシュア記の説明




 聖書は初めてという方から、聖書について少し説明してくださいとご質問をいただきました。
 それで、ヨシュア記と、これまでのCoffee Breakの記事について、簡単な説明をはさみます。


 聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻の書物から成っています。
 旧約聖書は、たいへん古い文書の集まりで、3500年ほど前から1000年ほどの間に書かれたものです。
 新約聖書は、イエス・キリストが「神の国」を宣べ伝えて以後、その弟子たちによって書かれ、だいたい西暦(紀元後)100年以内に書かれました。

 聖書は一人の人が書いたものではなく、40人以上の記者が書き、さらに個々の記事に対し、その資料的なものを書いた人もいてたくさんの人の手になるだろうと推測されています。生きた場所も時代も異なる大勢の人が何の打ち合わせもなく書いた記事が、不思議と一つのテーマで貫かれ、神の人類救済史となっているところは、他に比類のない書物と言えます。「聖書は神の啓示と霊感を受けて書かれた」と言われるゆえんです。

★★★★★

 Coffee Breakモーセ五書では、「旧約聖書の最初の5巻」を読みながら書いたエッセイを、一年間、連載しました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5巻です。

 創世記は、天地創造と人間の誕生、最初の人間アダムとエバが神の命令に背いて楽園から追放される話。その後、神が増え広がった人類のなかからアブラハムに声をお掛けになり、彼の子孫にカナンの地を与えると約束され、アブラハムの孫ヤコブ(イスラエル)と、その一族をエジプトに住まわせるまでが書かれています。
 出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民が、神のお力で、預言者モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンにたどり着くまでの物語です。
 出エジプト記では、「旧約聖書」の名の由来でもあるシナイ契約、有名な十戒とその細則が出てきます。

 ヨシュア記は、申命記の次に来る書物です。旧約聖書の6番目に置かれ、内容も申命記の最後と続いています。モーセが死んだあと、イスラエルのリーダーになったヨシュアに率いられて、イスラエルの民がカナンに攻め入り、入植する過程が書かれています。

 現在、そのヨシュア記に入ったばかりです。
 ぜひ、続けて訪問して下さって、この機会に聖書をお読みになってください。
 聖書は、もともとが古文書です。これまで、神学者、聖書学者、歴史学者、考古学者、批評家など、多数の専門家に研究され、その成果が翻訳にも結実しています。初心者向けから専門家向けまでたくさんの注解書も出ています。読むのに難しい面もありますが、星の数ほどの読者を持ち、現在も世界のベストセラーで、巨大な真理の宝庫です。聖書の主人公は、天地万物を創造され所有されている全知全能の神さまですから、わたしたちがどれほど多くをくみ出しても、尽きることがありません。

 新約聖書と並行してお読みになると、なお、その救いのメッセージ(キリストの十字架の意味)が鮮明でしょう。Coffee Breakでも、必要な箇所では新約聖書を開きます。

                        さとうまさこ

 Coffee Breakでは、新改訳聖書を使用していますが、ほかに新共同訳、口語訳聖書、現代語訳聖書、リビングバイブルなどがあります。
 




 











 
 
posted by さとうまさこ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする