2017年07月25日

ダニエル書46 終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。(ダニエル書12章4節、創世記1章1節)



 聖書には、その始まりの第一行から、意味深なことばが連なっています。

「はじめに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)

 すべてのものに、始まりがあり、終わりがあるというのが、私たちがいる宇宙の法則です。でも、これは、人が考える思考の範囲でのことばです。ある意味、ことば――概念に過ぎません。見える範囲の世界では、たいていのものは始まりがあり、終わりがあるので、そのように、一応「決める」のです。

 自分に生まれた日があり、死ぬ日があります。結婚の始まりの日があり、死別にせよ離婚にせよ別れがあります。友人と知り合う日があり、何となく疎遠になる場合出さえ、終わりの日があるのです。フェイドアウト――都合の悪い場面から、静かに退場した場合でも、それは同じです。
 断舎利などと言われて家の片づけをしたいと思っても、なかなか進まないのは、始まりがあったもろもろの「モノ」に終わりを告げるのは、やはり苦痛だからではないでしょうか。

「始まり」や「終わり」は、概念を表わす言葉に過ぎなくて、じつは、私は、そのどちらも、あまり信じていないのかもしれません。自分の始まりは、物理的には「存在した」のです。親や周囲の人たちの記憶の中で、また役所の記録の中に、その事実は、存在しています。けれども、自分の主観の中では、「わからない」のです。生まれたとき、受胎したときの記憶はだれにもありません。同様に、死も、自分の意識の中では、既に「存在しないもの」であるはずです。

 私たちは、多くの死を目撃し、人の死については「知って」います。しかし、自分の死は、観念の中にあるだけなのです。
当事者にとっては、始まりや終わりは、認識できない、そのような重大な事実を、神はさらりと提示されます。初めに天と地を創造された方が、神であるゆえに「言える」ことばです。

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 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」(ダニエル書12章4節)

 同様に、神は、「終わりの時」があることも、宣言されます。
 こんな言葉が言えるのは、神だけです。神は万物を創造され、万物の終わりを見届けられる唯一の存在だからです。アルファでありオメガであると神が仰せの時、その意味は、神の「オメガ」は、神がお造りになった世界を超える枠であることは確実です。これは、「終わり」」は、神だけが見届けられ、神だけが決める権限をお持ちの線引きであることを意味しています。

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 私たちは歴史を検証するものです。過去を探るのは、自分の有限の命を,過去に伸ばしているのでしょう。受胎や出産の時だけが始めではない。その以前があるはずだと思うのです。それは、神の領域だと、傍観しておくことはできません。神がお造りになった世界であれば、なお、それを知りたいと思うのです。これは、神に似せて造られた人の、当然の「本能」かもしれません。

 同様に、未来を知りたいと人は思うのです。「死んだら終わり」の唯物主義者でさえ、子供の教育をしたり、自分の墓の心配をします。「国家百年の計」などと言って、戦争をすることさえあります。
 科学は、過去のデータを未来に生かすためにあるのです。学者はもちろん、すべての教育、アートや文学、スポーツ、さまざまな技術的革新などすべては、人間の未来を拓くものです。これも、命に「限りのある人間」の、切実な思いの結果だと思います。
 この未来を売り物にして、すべての産業が成り立っているだけでなく、いかがわしい霊的産業もうるおっています。

 でも、神様は仰せです。
 「この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」







posted by さとうまさこ at 13:02| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする