2018年02月22日

ゼカリヤ書49 再臨に日の奇跡4――すべての民がエルサレムで過ぎ越しを祝う日(ゼカリヤ書14章12節〜21節)



 主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。(ゼカリヤ書14章12節)

 「エルサレムは安らかに住む」(11節)のお約束の、内実です。なぜなら、エルサレムは、攻めて来る人たちからも守られるのです。守ってくださるのは神様です。攻めて来る人たちは、足が腐り、目も腐るのです。これでは攻め寄せることはできません。神様のことばはただの脅かしではないのです。

 その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手で掴み合い、互いになぐりかかる。(13節)
 ユダもエルサレムに戦いをしかけ、周りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。(14節)
 馬、騾馬、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜のこうむる災害は、先の災害と同じである。(15節)

 神の都を攻めて来る敵がいるときは、どうなるのでしょう。そのとき、危機に際して、強いはずの敵が、病気や同士討ちや裏切りで壊滅する例は、旧約聖書にたくさん見てとれます。ギデオンはミディアン人との戦いにおびえていました。ギデオンの呼びかけの応じて集まったイスラエルの民は三万二千人もいたのですが、彼は不安でした。ところが、主は、ギデオンに仰せられるのです。「あなたといる民は多すぎるから、わたしはミディヤン人をあなたの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから」 そうして二万二千人が帰って行ったので、兵は一万人になったのです。ところが、主は、一万人でも多すぎるとご覧になり、兵に水場で水を飲ませると言う方法で選抜され、さらに三百人だけを残されるのです。もちろん、ギデオンは恐れますが、主の励ましで敵陣に攻め込みます。すると、敵陣で「恐慌」が起こるのです。(士師記7章)

 三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の前面にわたって、同士討ちが起こるようにされた。(同22節)

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 エルサレムの攻めてきたすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる。(16節)

 エルサレムに攻めのぼってきた民が、すべて滅ぼされるのではなさそうです。主の前に敗北を認め、主の主権を認めて命をつなぐ者もいるのです。もともと、主は、人を滅ぼしたいと思っておられないのですから当然です。
 主の権威と御力を体験した新しい神の民は、とうぜん、万軍の主を礼拝し、仮庵の祭りを祝うため、毎年、エルサレムに上ってきます。
 そうしなければ、主の祝福が受けられないだけです。

 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。(17節)
 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の、祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。(18節)
 これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。(19節)

 聖書では、雨は恵みを意味します。雨が降らないのは、恵みがないのと同じです。作物が実らないだけではありません。私たちが命をつないで、活動できることそのものが恵みなのです。主の恵みなしには、私たちはだれも、一分間だけの呼吸でさえ保障されないのです。

 その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。(20節)
 エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、
 それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。(21節)

 主にささげるために馬で運ばれる「主への聖なるもの」は、結局、いけにえをささげる者すべての分け与えられるものとなるのですね。
 そのような世界――神の国の実現のとき、もちろん、主の宮でいけにえを売るための商人などいなくなるのです。







posted by さとうまさこ at 12:13| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする