2018年03月30日

Coffee Break 聖書通読エッセイを振り返ってH ルーティーンとしての通読



 聖書を毎日読み、それを文章にしてみるという「習慣」がどれほど意味があったのかと問われれば、「いえいえ。別に取り立てて何かを主張するほどのことではありません」と答えるのでしょうか。かっこいい答えは、ご用意できないのです。

 毎日同じことを繰り返しているのは、ある意味で、生きている証拠です。私たちが存在している舞台は、「夜があり、朝があった」が繰り返される世界です。片時も休まず呼吸を繰り返し、定期的に食事を摂り、掃除をしたり洗濯したり、入浴をしたり、要するに生活のルーティーンを繰り返し、少しずつ成長し、やがて成長が止まり、少しずつ衰え、自分の周囲の環境も少しずつ変わり、やがて日暮れの地平線に退場していく・・・。
 ルーティーンは、「命をつなぐ」いとなみです。ですから、もはや学校からも職場からも解放され、タイムスケジュールに縛られない私でも、呼吸、睡眠、飲食など延々と繰り返していることはあります。聖書通読をルーティーン化するとは、この基本的な繰り返し、いわば命の維持装置の中に入れてしまうことです。
 そんなわけで、「毎日」と「一行も飛ばさず」を実行しようと決めました。一応、7年と7か月の間、通読エッセイを書き続け、一応、旧約聖書分を終えたのです。

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 聖書通読エッセイをルーティーンに組み込んで得たものが少なくなかったのは、事実です。神の存在は、日ごとに、「いたるところに、満ち満ちておられる方」「自分が46時中語りかけることのできる方」「始終その御目を意識させられる方」として迫ってきます。
 心に、「限りない平安」が生まれます。これは、とても気持ちの良い日々です。

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 不思議です。この間にも、自分の肉体はむしろ老いており、体力が落ちたり、しわが増えたりし、実際の記憶力や処理能力は目に見えて衰えてきています。聖書を読みながら、「衰退していく命の回復のヒント」を捜している時がなかったといえば、嘘になります。アブラハム、イサク、ヤコブが高齢までかくしゃくとしていたこと、モーセが大任を果たしたのが、80歳から120歳までの40年間だったという記録などは、多くの高齢者に希望を与えるでしょう。モーセは、死を目前にしても、「目も霞まず、気力も衰えていなかった」のです。
 神は、召された者には、「力」を付与されるのですし、モーセは例外的な「神の人」ですから、自分と同一視しているのではありません。ただ、モーセが特例的に神から力を与えられた人であっても、その力は、すべて「神の栄光のため」に使われたのです。ヨルダン川の東側までイスラエルの民を連れてくるのが、モーセの役割でした。仕事が終わったとき、神はただモーセに死に場所を指定され、モーセもまた従容として果て、墓の位置もわからないのです。これがすごいと思います。

 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔を会わせて選び出された。(申命記34章10節)
 それは主が彼をエジプトに遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、(11節)
 また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。(12節)

 「荒野の40年」は、出エジプトと呼ばれるイベントではなくて、まさに、神の救いの御計画のルーティーンだった!!とわかり、改めて、モーセと神との濃密な信頼関係に、気づかされるのです。







 

posted by さとうまさこ at 09:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする