2017年09月19日

ヨエル書9 年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。 (ヨエル書2章28節〜32節)



 「神の霊」と聞くと、私たちクリスチャンは、思わず背筋を伸ばして不動の姿勢をとるのではないでしょうか。神の姿は、まさに霊そのものなので、そのお姿を思って固まってしまうのです。もちろん、聖書の記述に見ると、むしろ「顔を伏せる」というのが正しい態度かも知れません。
モーセに対して、主は仰せになっています。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト記33章20節)。これが「神を見たものは死ぬ」と言われている根拠のようにも思えます。

 神は霊であられるので、神の御力は、あらゆる不思議やしるし、また自然現象などとして現わされています。しかし、同時に神は、御使いを使ってご自分のメッセージを伝えることができます。また、人の心に働いて、御思いを現わされることもできます。その典型的な役割を担わされる立場として、神はモーセに命じて、祭司制度を設けさせました。また、状況に応じて自在に預言者を選ばれ、「預言させ」、歴史に介入されているように見えます。

 実際、この「預言者」の存在が、聖書の「神の救いの歴史」の物語を前進させていると言っても良いように思います。
 世俗の立場と力をもった有力な王や長老は、たしかに、役割りがはっきりしていて、社会的に「見える」のです。しかし、アブラハムを始め、モーセ、ヨシュア、士師記に出てくる英雄たち、イスラエルの王制の始まりに大きな役割を果したサムエル、イスラエル王国を盤石なものにしたダビデなどは、みな、世俗の権力を持ちながらも、預言者でもあったのです。神のことばを預かり、同時に、それを民に伝え、神のことばであるからこそ、自信をもって指導力を発揮し、また、神のことばを預かっている「神の人」であるからこそ、民も従ったのです。

 とくに、王制中期以降、多くの預言者が現れているのは、聖書が、やはり、「神の国の歴史」物語だからでしょうか。注意ぶかく読むと、北イスラエルの王たちのように、まるで池の面のあぶくのように現れる王でさえ、神の御意思と無関係でないことがわかります。

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  その後、わたしは、
  わたしの霊をすべての人に注ぐ、(ヨエル書2章28節)

 イスラエル王国末期、ヨエルがこのような預言をしたことに、大きな意味があったのは事実です。当時の人は、偽預言者は別として、自分から預言者になろうとしていたのではなさそうです。しかし、それが必要な時代が到来していたのでしょう。
 神はすべての人が神の声を聞き、神の霊に満たされる日にこそ、「神の国」が実現することを知らせておられるのです。

 実際に、これは、新約の時代、ペンテコステの日に、その始まりがありました。神の子イエスを信じることで、聖霊をいただくのですから、ヨエルの預言は今日実現しているのです。

  あなたがたの息子や娘は預言し、
  年寄りは夢を見、
  若い男は幻を見る。(ヨエル書2章28節)
  その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、
  わたしの霊を注ぐ。(29節)








posted by さとうまさこ at 11:59| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする