2017年11月22日

ミカ書16 神の正しいさばきを待つ(ミカ書7章7節〜11節)



  私の敵、私のことで喜ぶな。
  私は倒れても起き上がり、
  闇の中にすわっていても、
  主が私の光であるからだ。(ミカ書7章8節)
  私は主の激しい怒りを身に受けている。
  私が主に罪を犯したからだ、
  しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、
  私を正しくさばいてくださるまでだ。
  主は私を光に連れ出し、
  私はその義を見ることができる。(9節)

 神への信仰には、困難がともなう気がします。全能の神・正義の神に従う人たちに、なぜ困難がともなうのか、単純に考えれば、不思議です。神様は「ご自分の子供を愛してくださるはず」ですし、それも無条件に愛していただきたい」と、人間側は思うのです。聖書には、神が人をお取扱いするその方法は、単純に、愛」、もっといえば「ご利益」でないことが書かれているのですが、それがわかっている預言者でさえ、揺らぐことがあるのです。
 とくに、信仰者を苦しめるのは、敵から自分の神を嘲笑されることです。今日でもありふれた反応です。例えば、熱心なクリスチャンの家庭に、とんでもないもめごとが起きたり、牧師家庭に不幸が訪れると、人は言うのです。「あんなに信心深いのに!」

 預言者は、時代に警告する神の言葉を代言するのですから、人からは――敵からだけでなく、味方であるはずのものからさえ――憎まれます。そもそも「神から召された者である」とわかるのは本人だけで、人間世界のように選んだ者からの認証式があるわけではなく、まして、世俗的な報酬があるわけでもないのです。せっかく召命を受けても、いらいらと苦しむことが多いのは、モーセの生涯を思い浮かべただけでもうなずけます。モーセは、神のご命令と身勝手な民の言い分の板挟みになって、時には、人を斬らなければなりませんでした。

 預言者としての慰めは、神が「彼の訴えを取り上げ」「正しくさばいてくださる」方であることです。神への絶対的な信頼です。

  それで私に向かい、
  「あなたの神、主は、どこにいるのか。」
  と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。
  私もこの目で敵をながめる。
  今、敵は道の泥のように踏みにじられる。(10節)

 「預言者と神の民」をあざ笑った敵は、かならず恥を見るのです。恥を見て、道の泥のように敵が踏みにじられているのを見ることができる、それが、預言者の確信です。
 私流に考えれば、そうでなければ、預言者は「立場がない」ということにならないでしょうか。

★★★★★

  あなたの石垣を建て直す日、
  その日、国境が広げられる。(11節)
  その日、アッシリヤからエジプトまで、
  エジプトから大川まで、
  海から海まで、山から山まで、
  人々はあなたのところに来る。(12節)


 ここでの「石垣」は、国境です。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 国境が建て直されるときは、国が再建されるときです。その国境は、元のイスラエルの領土をはるかに超え、アッシリヤからエジプトまでというのです。当時の中東世界の端から端まで、ある意味、全世界を指しているのかもしれません。
 これは、やがて来る「神の国」が、全世界に広がっていくとの預言ではないでしょうか。







posted by さとうまさこ at 10:58| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする