2017年05月26日

エゼキエル書168 回復して下さる神(エゼキエル書48章30節〜35節)



 町の出口は次のとおりである。北側は四千五百キュビトの長さで、(30節)
 町の門にはイスラエルの部族の名がつけられている。北側の三つの門はルベンの門、ユダの門、レビの門である。(31節)
 東側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。(32節)
 南側も四千五百キュビトの長さで、三つの門がある。シメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。(33節)
 西側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ガドの門、アシェルの門、ナフタリの門である。(34節)
 町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。」(35節)

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 エゼキエル書は、千年王国の美しい幻を提示して閉じられます。

 ユーフラテスの支流ケバル川のほとりで、同胞とともに捕囚となっていたエゼキエルに、神が預言を授けられたのは、第三十年の第四の月の五日でした。この「三十年」は、エゼキエルの年齢であろうと注解書は記しています。三十歳というのは、祭司が祭司職を行なえる年齢でした。エゼキエルは、祭司の家に生まれたのですから、国にいれば祭司職についたのです。彼の中に、そのような自分の立場、神殿での当然の働き、それができないことへの、はげしい悲しみと渇きがあったとしても不思議ではありません。
 神は、神の民の祭司として、祭祀が行えないエゼキエルを預言者として召されたのです。その預言が未来の神聖政治国家の回復、正しく分配された相続地とそれらの中心であるエルサレムの完成図を見ることだったのは、当然だったように思えます。

 エレミヤは、滅亡の只中のエルサレムで預言しなければならなかった預言者、イザヤは王制の理想を見失って、偶像の中で迷走のなかにあるユダ王国で、神のことばを伝え続けた預言者でした。その時代背景による、それぞれの預言の意味を、汲み取れればと思っています。

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 「回復」は、希望のことばです。キリスト者でなくても、神のことなど考えたことがない人の間でも通じます。病気になったら、人は「回復」を思います。失敗もつまずきも、破れも破壊も、それらが起きると同時に、回復が求められます。
 考えてみると、膨大に見える聖書の物語――神の救いのご計画――は、神と人との関係の回復への道です。

 エゼキエル書は、明白な回復のメッセージが預言されています。その意味で、イザヤ書、エレミヤ書に見える、はげしい焦燥や絶望は見られません。

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 新約の民は、キリストの到来により、「回復への道」が、とても明快に示されました。十字架による贖い、神ご自身が、私たちの罪を背負って十字架上で血の贖いを済ませて下さったのです。すべては、神様が整えて下さったのですから、これを受け取るかどうかです。「信じる信仰だけで」神の御許に帰ることができる私たちです。
 
 回復への希望がある所には、しぜんと秩序が行なわれるでしょう。神のことばを聞いて、神の御前に正しくありたいと思うようになる…といっても、私にそれができているということではありません。

 完全にされた千年王国のイスラエルのまぼろしに、捕囚の民が励まされたように、私たちは、十字架を見あげるようにと励まされています。
 神の大きな犠牲、不思議な御業への、賛美と感謝を改めて心に刻みたいと、ひざまずくのです。







posted by さとうまさこ at 09:42| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする