2018年02月20日

ゼカリヤ書47 再臨に日の奇跡2――エルサレムからの湧水(ゼカリヤ書14章6節〜8節)



 私たちは、「救い」を待ち望んでいます。「今が十分幸せだ。救いは必要ない」と反発する人でも、そもそも「神なんかいない」と豪語する人でも、滅びる自分について、平然としていられる人はどれくらいいるのでしょう。「生きとし生ける者の死は事実である」「人類も地球もいつか滅亡するというのも事実である」と認めるのは、潔い知的な態度のように思えます。これこそ合理主義的態度、科学万能の時代の教養ある人間の理性であると見えます。
 ところが、往々にして、その原則は、たちまち、非合理主義的な態度、非科学的な生き方に、流れていきます。

 限りある人生なら、制約の中で可能な限り豊かに、楽しく生きようではないかという態度が、最善であるかのように見えます。健康に留意して一日でも長生きし、同じ一日なら心を楽しませるために費やし、人からも社会からも非難されることのない自立した人生を送るために、最後の一瞬までをまかなう十分な費用を蓄え、そのためには、安定した良い仕事を持ち、そのためには、若い時から危なげのない着実な生活をすること。不要な摩擦を避け、分別をもち、家族や友人を大切にし・・・。
 すべて良いことなのです。ある意味、幸せとはこういう状態といえるでしょう。問題は、これでストーリーは終わらないことです。
 そもそも、「限りある人生」「制約のあるいのち」という認識が「幸福感」に反しています。いのちは、死を忌み嫌います。少なくとも人間のように知性がある生命は、死を忌み嫌います。知性が納得したつもりでも、心の奥、魂の奥では納得できません。
 けっきょく、いのちは、ぜんぜん知的ではないのです。どれほど理性で考えても答えの出ない領域、それが神の領域ではないでしょうか。「わからないこと、見えないことがある」 同時に、それを「知っている方」がおられる。全知全能の存在があると認めることこそ、合理的な態度ではないでしょうか。

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 主が再臨される日、救いのご計画の最後の段階は、「創造の日」と決定的な違いがあります。創造の日には、少なくとも、人が作られる日まで、人間は生まれていないのです。
 しかし、終わりの日は、神が最後の審判を下される日です。人間が「選別される日」です。それは、私にとっても、今まで生まれてきて死んでいった人類にとっても、これから生まれる人たちにとっても、「恐ろしい日」です。この審判なくして、神を信じて正しく生きた人たちにとってさえ、「完全な天国」は来ないのです。

 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。(ゼカリヤ書14章6節)
 これはただ一つに日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。(7節)

 再臨の日は、それまでの、カレンダーや時の決まりが、すべてリセットされてしまうのでしょう。地上の生命体が暮らしやすいようにと、最初に造られた太陽や月も、もう意味がなくなるのです。私たちが現在「光」だと認識している太陽や月や星の光はなくなります。面白いのは、寒さや霜がなくなることです。これは、科学的自然的事実に反する気がします。たとえば、太陽の光が届かない地点は地表は冷える、これが科学的事実です。もっと寒いと、霜を通り越して永久凍土になったりします。
 ところが、再臨の日には、太陽がなくなり、その影響がないために「寒さ」もなくなるというのです。昼も夜もないのに、夕暮れ時だけ光があるのは、何を意味しているのでしょう。

 その日には、エルサレムから湧水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にもそれは流れる。(8節)

 この「湧水」が、象徴的な言葉であるのは自明でしょう。湧水は、聖書では、一貫していのちの源を意味しています。イスラエルの民は、カナンのあちこちで、それぞれに井戸を掘って、オアシスを見つけて、命をつないできたのです。いわば、神の国の歴史は、この湧水によって存在することができたのです。

 終わりの日には、神はエルサレムからの湧水を東の海、西の海、つまり全世界に注いでくださるらしいのです。枯れることのない泉として、季節に関わらず命の水があふれるというのです。これは、このときから、世界中の民が、エルサレムからの湧水で養われることが、語られているのではないでしょうか。ハレルヤ!!





posted by さとうまさこ at 11:33| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする