2018年03月19日

Coffee Break 聖書通読エッセイを振り返ってD サウルとダビデ



 モーセは、モーセ五書の著者とされています。出エジプト記、民数記、申命記では、膨大な物語なのに、モーセの独り舞台の感があります。アロンとヨシュアは、重要な働きをしていますが、物語の中ではあくまでバイプレヤーです。ミリヤム、パロも同じです。
 出エジプトという重大な働きに召されたモーセは、神が「顔と顔をあわせて」語られたのです。神との関係においては、その後に召命を受けた多くの預言者たちの中でも、格別にその親密さが描写されています。ホレブでの神とモーセの対面と対話は感動的です。人間的な観点では、たちまち「面接落ち」しそうな老齢の羊飼いを、神は、全イスラエルの民のリーダーだと決めておられるのです。モーセがどのように尻込みしても、神の意思は変わりません。その理由は、物語の展開とともにわかってきます。神は、必要な時には必ずモーセを支援されるのです。神は人間のどんな必要にも答えることのできる方ですし、その方に支援していただくのですから、モーセは「尋常ではないリーダー」となれたのです。

 モーセ五書の感動は、神とモーセの人格的交わりの濃さにあるといっても過言ではないように思います。反面、人間との関係におけるモーセ像は、どこか、ぼんやりしています。たしかに、ミリヤムやアロンとの確執や、物分かりの悪い民に怒るモーセには同情するのですが、それもあくまで「神の人モーセ」としての姿です。モーセには妻がいて、それも複数いた可能性もありそうです。また子供もいます。しかし、彼のプライベートな生活や人間関係は,聖書の記述からだけでは、わかりません。彼の肉体的な特徴――姿かたちだけでなく、背が高かったのか低かったのか、イケメンだったか、そうでなかったか。アスリートタイプだったか。高齢なので背中がいくらかでも丸くなっていたかなども、ほとんど言及がないのです。ただ、彼が最初に神とお会いしたとき、自分で口下手だと言っていること、死ぬ前になっても「目もかすまず、気力も衰えていなかった」との記述が、モーセのイメージを膨らませるだけなのです。

 姿かたちがはっきりしないのは、ヨシュアもサムエルも同じです。彼らは、なによりも神のご命令を行う預言者(イスラエル人のリーダー)として、記録されています。神が強力なバックアップをされた彼らの行動に、焦点が置かれています。
 
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 サウルとダビデは、サムエルが油をそそいで任命した「王制イスラエル」の王です。ここで、ふいに、聖書はイスラエルのリーダーになる者の外見を描写しています。サウルは、イスラエルに並ぶもののない美青年でした。イスラエル人の誰よりも「頭一つ」高かったのです。
 ダビデは、「その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった」(Tサムエル記16章12節)のです。
 さらに、サウルもダビデも、彼らの家族関係と、家族の中での彼らの立場も明かしています。サウルは裕福なベニヤミン人キシュの息子で、父親の行方不明の雌ろばを捜して、エフライムの山中を何日も巡るような真面目な青年でした。彼をサムエルに近づけたのは彼のしもべでしたが、そのいきさつから、サウルがしもべとの関係も良好だったのがわかります。

 一方ダビデは8人兄弟の末っ子で、サムエルがエッセイの家に来たときにも野で羊を追って働いていました。兄たちのだれも、サムエルに選ばれなかったので父親はダビデを野に呼びにやったのです。ダビデが家族の中であまり重んじられていなかったのがわかります。

 サムエル記は、この二人の王の始まりから、王の人間的な感情や王の家族、人間社会の権謀術数などを小説のように描写していきます。それゆえ、ここにおいて、聖書が、がぜん身近で面白い生き生きした歴史物語になってくるのです。
 もちろん、神が主役であること、神がすべてを支配し導いておられることは、わかるのです。同じTサムエル記16章の、「人はうわべを見るが、神は心を見る」(同16章7節)は、一貫した神の「視点」です。

 神の強烈な顕現と、一方的な召しで、リーダーとして立たされたモーセは、読む者に、「神の救いの御計画の神秘」を思い知らせます。けれども、聖書は、進むにつれて、人間の心や、人間関係や社会に、しだいにその視野を広げて語って行きます。
 これをしっかりと読み記憶することが、預言者や預言書を理解することだと、今頃気が付いているさとうです。
 TUサムエル記、TU列王記を、ぜひ、集中してお読みになるようお勧めします。




 

posted by さとうまさこ at 10:55| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする