2018年03月17日

Coffee Break 聖書通読エッセイを振り返ってC 召命について


 
 聖書を通読しながらエッセイを書くと決めたとき、最初に肝に銘じたのは、「毎日読み、書く」「聖書の終わりまで、続ける」ということです。

 これは、神様に誓ったことでした。聖書には、「誓ってはならない」とありますが、誓ったなら、「誓いを果たせ」とも命じられています。これは、じつは容易な誓いではありませんが、根が楽に流れる気性ですから、最初から、神様に「助けと導き」をお願いし、当てにしていました。神様に祈り、聖霊の導きをお願いすれば、なんとかなるかもしれない。人生には不測の事故があり、また寿命がありますから、「毎日」も「聖書の終わりまで」も希望に過ぎないとわかっています。結局は、「神がお許しになるなら」です。しかし、そう思うだけで、ふしぎに、「安心」があったのも事実です。もし途中で斃れても、エッセイが中断してしまっても、それは神のみ意思ですと言えるはずなのです。
 とはいえ、毎日、ただ「神の導きを祈って、書き始めること」、まず、「聖書を開き、パソコンを開き、キーボードの指を置くこと」がどれほど難しいかは、おいおい気づかされるのです。
   
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 旧約で一番感銘を受けた聖書箇所を挙げるのでしたら、モーセの召命です。モーセは、ホレブの山で突然、神から「呼ばれる(calling)」のです。(出エジプト記3章、4章) 
 ホレブの山で、召命を受けたモーセは、神から命じられたとおり、ミデヤンの地からエジプトに戻ります。兄のアロンの助けを得て、強大なエジプトの権力者パロと渡り合い、十の奇跡でパロを打ちのめし、とうとうイスラエル人をエジプトから連れ出すのに成功するのです。
 パロが心をひるがえして、軍隊を率いて追ってくるときには、「葦の海の奇跡」で、敵を海に沈め、渇きや飢えと直面してすぐ泣きわめく同朋を率いて、シナイまで導きます。
 大変ドラマチックで、スペクタクルな場面が続く間中、モーセひとりが主役であるかのような展開です。

 事実、神はシナイ契約を結ぶときにも、モーセだけに山頂への登攀、神との対面をお許しになるのです。十戒を与え、それに伴う神のおきてと定めを教え、幕屋建設の詳細と、祭祀のルール、祭司の人事までを指示されるのです。このとき、「神の救いの御計画」が、実質的にスタートするのです。このシナイ契約に、モーセは、イスラエル人の代表として大きな役割をはたすのです。

 モーセは、シナイ契約のキーパーソンです。ですから、モーセを「60万人のイスラエル人を開放した偉大な指導者である」と観点で語られることがあります。それはその通りでしょうが、私は、これだけの人物が最初からそうではなかったことに、気が付いたのです。
 「出エジプト記」の壮大さと、そこでのモーセの働きには確かに目を見張るのです。同時に、ホレブで召される時のモーセの小心さの対比が、印象的です。
 神がなぜ、モーセを召されたのか、モーセでなければならなかったのかを、説明しようとする解説に出会うことがあります。でも、召命については、「なぜ」と、分析することは意味があるのでしょうか。旧約聖書を通読する中で、そのような問いは、頻繁に出てくることになったと思います。

 
 

posted by さとうまさこ at 12:25| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする